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北欧史

2014年2月 7日 (金)

『リネーの帝国』への道(8)〜「スウェーデン啓蒙」という妄想

遅ればせながら、Jonathan Israelの”Democratic Enlightenment”のペーパーバック版が届き、パラパラと眺めている。でも、リネー学派を育んだウップサーラ・コネクションの話はほとんどでてこない。(1000ページを超えるボリュームのなかでほんの数カ所触れられる程度。)最近、なんとなくスコットランド啓蒙との比較で「スウェーデン啓蒙というべき括りでまとめたっていいじゃない?」という妄想を僕はもっているんだ。両者に共通する雰囲気は、18世紀初頭の政治変動に対する現実的対応を「自然」に対する観点(理念)の転換を基礎に据えつつ構想されているところ。例えば、自然神学は18世紀啓蒙における様々な社会論のベースに置かれる世界認識を用意していると言ってよく、これはスコットランドもスウェーデンも変わらない。いわゆる効用主義的観点に基づいた経済論は後の自由主義的経済を後押しするものだが、これらが議論される雰囲気もよく似ている。

しかしスコットランドで言えば「悪徳さえ公共の益につながる」といったように個人の徳と公共の益を二者択一的に捉えることを回避して、道徳的価値なるものも所詮社会の構築物に過ぎないと断罪した道徳哲学は、「生得的な道徳に訴える快楽もまた美徳」とし、やがては「最大多数の最大幸福」といった発想を生み出す。スウェーデンの場合には、こうはいかない。ゴート主義以来の構築主義的な社会観に基づきつつ、「ありうべきキリスト者」としての道徳が「ネイションの当為(sollen)」として説かれる。効用主義的な観点に基づく経済論も、結局のところは「祖国への愛」の一例として集団的発想に回収されていく。「当為」の対象として示された「祖国」という集合理念は、やがて博物学や歴史学などによる「祖国」の可視化により、文化的共通性を「発見」することで「フォルク」という集合理念に結実することになろう。

もし「スウェーデン啓蒙」なるレッテルを貼ることが可能ならば、おそらくそれは、王国議会における政党政治の時期にあって、後年のグスタヴ啓蒙専制の実現を用意することになる理論武装の諸現象ということになるだろう。グスタヴ3世の統治モットーが「Fädernesland(祖国)」というスウェーデン語であることが象徴的なのだけれども、まさにこの「祖国」をめぐる諸言説が「スウェーデン啓蒙」のひとつの特徴だ。大北方戦争敗北以降の政治的現実のなかで効用主義的な観点にたった議論は、「スウェーデン啓蒙」を代表するリネー学派の特徴でもある。

ここでリネーの「使徒」の一人として知られるPeter Forsskål(フォッシュスコール)の例を紹介してみようか。彼は18世紀半ばにあって"Den Nationnale Winsten(国民の利益)"を執筆したAnders Chydenius(シュデーニウス)と並んで自由主義的改革を主張した人物としても知られる。(後者はフィンランド出身者なので現在はフィンランドの偉人として扱われる傾向があるので、近年のスウェーデンでは"Tankar om borgerliga friheten(市民の自由についての考察)" (1759)を執筆した前者をもってスウェーデンにおける古典的な自由主義の嚆矢とする風潮がある。)王国議会で政党政治が行われていた時期とはいえ検閲制度が残る時代に生きたフォッシュスコールは言論の自由に関する強烈な提唱者で、過激な彼のパンフレットの数々がウップサーラ大学に出回ることに師匠リネーは大分苦労したらしい。興味深いのは、彼がゲッティンゲン大学(ゲオルク・アウグスト大学)へ留学していた経歴だ。当時のゲッティンゲンはハノーファ選帝侯領に位置していたから、スコットランド合同以降のブリテンの雰囲気にも触れていただろう。そして何より啓蒙期のドイツの文化人との交流。とりわけカントとの交流と彼に与えた影響はよく知られていて、カントの思想的転換の一例として有名なヴォルフの形而上学への批判は、このフォッシュスコールから刺激されたものとも言われている。

効用主義的な言論が単なる政策のための議論ではなく、人間の置かれた世界を把握する方法との関係で構想されていることは、18世紀啓蒙を覆うひとつの特徴だ。そしてそこで見出された方法は、スコットランド啓蒙における道徳哲学や経済学が後世の世界観把握の方法に引き継がれていくように、「スウェーデン啓蒙」の場合もまた似ている。上で紹介したフォッシュコールの後日談を記せば、彼は1760年にデンマーク王フレゼリク5世が支援したアラビア半島探検事業のリーダーとして(リネーから推薦をうけ)スウェーデンを出立、1763年にイエメンで死去し、終ぞ「祖国」に帰ることはなかった。今日的な語彙で言えば、哲学者でもあり経済学者でもあった彼は、最後は博物学者として死んだ訳だが、そもそもこうした分類が「啓蒙」期の人たちの幅の広さを語るのに限界がある。

興味深いのは、この探検隊の唯一の生き残りとしてコペンハーゲンに帰着した人物がカーステン・ニーブールであり、彼は北欧における東洋学の父となった。(デンマーク出身ながらスウェーデンの王立科学アカデミーの会員となったからあえて「北欧」とする。)そして地中海世界へと向けられた父の事績を受け継いだ彼の息子こそが、厳密な文献批判の方法論をもって近代歴史学の祖とされるバルトホルト・ニーブールである。古代の地中海世界を対象とした彼の事績には後々のランケらによる歴史主義的な傾向は見られず、むしろそうした歴史主義的観点から「フォルク」の歴史的運命を叙述するような傾向は、フィヒテやヘーゲルなどに刺激された同時代の歴史哲学の雰囲気に影響されつつ、スウェーデンやデンマークなどで見出されていくだろう。言うまでもなく、僕ら日本の歴史学(東大って言ったほうが良いのかな?)はランケの直弟子だったリースの伝えたディシプリンを起源として、日々「世界の記述」に努めているわけだけれども、こんなところでも自らのルーツのなかに決してスコットランド啓蒙だけでない「啓蒙」の縁と出会う機会があることを銘記しておいても良いかも知れないね。

2014年1月14日 (火)

『リネーの帝国』への道(7)〜「科学と祖国」への視線

巷の三連休、僕は神大で缶詰になり、今年度末で大団円を迎えるパトリア科研の研究会を過ごした。事前に報告の整理が間に合わず、ようやく徹夜して報告原稿を書き上げたりした。途中dropboxのダウンという事態にも見舞われたが、旧知の皆さんと充実した時間を過ごした。(そう思うと反面、家族サービスの「か」の字もない三日間だったから、家族には申し訳ないことをした。)遅まきながら阪大もようやくeduroamサービスを本格運用し始めたタイミングでの研究会となったから、阪大で取得したeduroamのアカウントがフル活用される機会ともなった。(これまでは、あろうことかルンド大学で頂いたeduroamのアカウントを、神大や北大など、国内でeduroamサービスを提供している場では使っていた。阪大の研究環境も少しづつグローバル基準に追いつきつつある。)

正直、一夜明けた今も頭の中はミルク粥状態だ。けれども、個人的には『リネーの帝国』にむけた次のステップについて、「祖国」論と絡めてこれを展開させる大きな示唆を得る機会となった。このブログで『リネーの帝国』への道について記す機会がすっかりなくなってしまっていたけれど、それをあきらめた訳ではない。とりわけ昨年頂いたサバティカルを通じて、少しづつだけれども『リネーの帝国』の実現に向けた歩みを続けている。今年度中には、18世紀後半に訪日したC.P.テューンバリを例に『リネーの帝国』の概要を論じた論文と、ヨーロッパとアジアの媒介者としてのリネー学派の意義を論じた論文が出るはずだ。ただ、僕は『リネーの帝国』を掲げた構想について、リネーとリネー学派の事績を紹介するものとして考えている訳ではない。それは、「大国の時代」と呼ばれた「バルト海帝国」の経験を継承することで、他のヨーロッパ世界と比べて独特な自己認識を実現するに至ったスウェーデンの道をまとめ上げようとするものだ。そういう意味で、この三連休の経験は有益だった。

2008年に刊行された『歴史的ヨーロッパの政治社会』以来、僕はいろいろなところで18世紀スウェーデンにおけるパトリア論を発表していた。パトリア論については共和主義的自由を明らかにするポーコックやスキナーらケンブリッジ学派の概念史研究が知られている。それが史料上に残された「言葉」を同時代の政治文化的コンテクストに位置づける点で示唆溢れる研究であるには違いない。けれど僕は、「言葉」のコンテクスト化の過程が社会経済的背景まで繋がらない点にそうした概念史研究の陥穽の一つを感じている。例えば「祖国」のような言葉を発した人物が、もし同時代の社会生活の基準において奇人変人で誰からも見向きもされず、修道士のように同時代の社会経済から隔絶した生活を送っていたような場合、彼らの発した「言葉」にはどこまで説得力を認めることができようか。

「やがて私の時代が来る」的に彼らの言葉の将来性を信ずるというは、楽観的に過ぎるというものだろう。

だから、18世紀スウェーデンの「祖国」を検討する上で大切になるのは、そうした「言葉」を発した人たちの生きた場の確定となる。僕たちは論文のなかで、よく「スウェーデンは…」といったように、「スウェーデン」を主語として語ってしまう。近世において「スウェーデン」を主語として語ることは、現在のような主権国家としての意識が生まれる前だから、実際には御法度だ。けれど、現在の読者が理解できるように文章を紡ぎ出さねばならないから、便宜的にそうせざるをえない。ここは難しいところだけれど、この矛盾を回避するには、近世における独特な秩序観について「言葉」を発した人そのものを主語として語ることが有効だと思っている。だから、概念史研究は有用だと僕が確信しているのだが、先に記したように、ある「言葉」が実は独り言であるような危険性を含んでしまう。

要は、ある人が発した言葉が独り言なのではなく、同時代のコンテクストにおいてオーソライズされていたものだと、現在の読者が納得できる「場」を確定すればよいのだろう。今回の科研では、啓蒙期ウップサーラ大学で活躍した人たちの「祖国」論を追いかけていた。しかしウップサーラを語ると近世スウェーデンの「祖国」にはフィンランドも含まれていた筈なのに、「スウェーデン」だけでオーソライズされた言葉というイメージが強くなってしまう。(実際には、ウップサーラもまた文芸共和国の時代にあって国境線など関係のないコスモポリタンな知性を共有し、そして情報を発信する場だった。)今回の研究会で気がついた点は、ゴート主義にはじまって、啓蒙期のスウェーデンやフィンランドで社会的有用性の追求を「祖国愛」の条件としたイデオローグも、抽象的概念だった「祖国」を探検事業を通じて可視化したリネー学派の学者たちも、いよいよ19世紀に入ってフォルクの文化的特徴を語り出した者も、王立科学アカデミーの会員だったということだ。

王立科学アカデミーでオーソライズされた「祖国」という言葉は、大北方戦争敗北後の復興期にあって社会的有用性の模索と関連している。「祖国」という言葉はそこに生きる者に求められた「当為(なされるべき)」の対象だったから、同時代の社会経済的コンテクストとの関係も示しやすい。それだけれなく、18世紀のパトリオティズムから19世紀のナショナリズムへの変容を見るうえでも有用ではないか?18世紀の文脈においては、「礫岩」のような複合的編成をもった政治秩序をまとめるうえで、抽象的で汎用性の高い「祖国」という言葉が多用された。しかし19世紀以降のイデオローグたちは、スウェーデンに生きるフォルク(民族)の政治的・文化的特徴を示しつつ、彼らに課せられた歴史的運命の「物語」を構想することで、「祖国」に生きる民族を個別具体的に論じた。この変化を促したものとして僕が注目しているのが、「祖国」の可視化という過程であって、それは社会的有用性の探索を「祖国への奉仕」として求められていた啓蒙期に、まさに王立科学アカデミーの支援を受けてリネーや彼の「使徒」たちが行っていた活動の所産なのである。

忘れないようにメモしておこうと思い、長々と書き連ねてしまった。要は(…督促されている幾つかの仕事を終えた後…)次に書く論文は「科学と祖国〜王立科学アカデミーにおける「祖国」論の歴史的展開」だという話。それぞれ忙しいだろうに、こういう話に真摯に耳を傾けてくれ、拙い議論を鍛えてくれる先輩や同輩の皆さんの存在に心から感謝したい。

2012年5月16日 (水)

北欧史への扉(1)〜グリーペンステッドとワレンバリのこと

今年度の院ゼミでは、デンマーク史では絶対王政研究の史学史に関する論文を、スウェーデン史ではストックホルム大学のTorbjörn Nilssonによる19世紀の社会エリートに関する論文を手始めに輪読している。大学院生とともにじっくりと論文を読んでいれば、あれやこれや…と面白そうな論点が見つかるものの、残念ながら自分の頭と体はひとつ。あれやこれや…とそれらの論点に手をつけることは毛頭できそうにもなく…それならばということで、北欧史研究を志そうとするする後学の士にむけて何らかのヒントになればと思い、これから時間の余裕があるときに思いついたままを「北欧史への扉」と題して、このブログに記そうと思う。

今日のスウェーデン史の院ゼミでおぼろげながら感じていたことは、もしスウェーデンにおける福祉国家の歴史的展開を検討してみたいと思うならば、現在のスウェーデンにおける歴史学研究の動向を踏まえ、我が国でも19世紀中葉におけるスウェーデン資本主義社会の本格的勃興期の研究がなされるべきだろうということだ。スウェーデン福祉国家を支える政治経済システムをネオ・コーポラティズムと称すべきかどうかは、我が国でも数多く存在する社会科学系の研究者の説に任せるが、そうしたシステムを下支えする政府・経営者団体・労働組合の協調関係の中核にワレンバリ財閥の存在が大きかったことは論の異同はなかろう。我が国の福祉国家研究では、全国展開した各種の国民運動やその言説を吸収していく社会民主党に関心が集中するが、スウェーデンにおける歴史学研究の動向に従えば、1930年代に先鞭がつけられる福祉国家形成の前史として、将来的にネオ・コーポラティズム的システムの中核を担うことになるワレンバリ財閥とスウェーデン政府との相互依存関係は研究史の一つの核を形成してきた。

19世紀から20世紀の転換期を境とした労働運動をはじめとする国民運動の展開は、ネオ・コーポラティズムの一翼を担うことになる労働組合とその支持を受けて発展する社会民主党の勃興を論ずるには十分だが、このシステムのスウェーデン的起源を論ずるにはもう一つの核として経営者団体の問題も論じねばならないし、それらの利益集団がいかに政府・議会による政策過程に組み込まれていたのかも論じられねばならない。そうした問題を歴史的な観点から検討しようとする場合、僕たちはとりわけ19世紀中葉の「資本主義の組織化」にむけたスウェーデンにおける経済システムの制度的改革に注目すべきだろうと思う。1850〜60年代にかけての「資本主義の組織化(organiserande av kapitalismen)」という議論は、1990年代にスウェーデンの歴史学界で議論されたテーマのひとつで、例えばストックホルム大学歴史学部で進められた「福祉社会における国家と個人(Stat och individ i välfärdssamhället)」などの研究プロジェクトが知られている。

そもそもスウェーデンの資本主義社会の勃興過程において、市場における民間からの資金調達システムの生成は他のヨーロッパ諸国と比べて遅れたが、1850年代に一人の意欲的な財務大臣が登場するによって状況は急転することになる。J. A. グリーペンステッド(Johan August Gripenstedt)である。ホルシュタイン公国出身のこの男爵は、スウェーデンにおける資本主義経済の勃興を目指した…というよりは、熱烈な自由主義改革論者である彼が主導した改革の結果として、Per T. Ohlssonが1994年に刊行した近代スウェーデン経済史の概説書が言うところの「成長の百年(Hundra år av tillväxt)1870−1970」に先鞭がつけられたと理解すべきである。一般的に、彼の財務大臣時代の改革のアウトラインは、貿易の自由化と企業の自由化を二つの柱としてスウェーデン資本主義が花開くとする1857年議会における「花の絵(blomstermålningarna)」演説に示されるとされる。

この「花の絵」と称されるグリーペンステッドの自由主義改革プランは一見すると楽天的論調に溢れるものだが、1990年代の歴史学研究を経て「資本主義の組織化」の先鞭をなすものと近年では理解されている。例えば、この改革の恩恵を受けて開いたひとつの花こそ、まさにワレンバリ財閥だったと言って良い。ワレンバリ財閥の勃興は、海軍あがりのA. O. ワレンバリ(André Oscar Wallenberg)がスウェーデン最初の民間銀行であるストックホルム民間銀行(Stockholms Enskilda Bank)を開業したことに始まる。1856年に裁可された開業許可は、このグリーペンステッドによる改革の最初の策だった。ストックホルム民間銀行の特徴は、女性を含め個人が自由に口座を開設することができることにあり、ワレンバリは、この銀行に集積される預金を元手としながら数多くの企業へ投資し、コンツェルン体制の起源を形成することになる。グリーペンステッドは、市場における企業勃興を刺激する施策をとる一方で、内国関税の廃止による流通の自由化に踏み切るだけでなく、フランスやドイツ関税同盟を相手とした関税を減じることで外国との貿易や外国からの投資をも刺激しようとした。彼の改革の時代に、スウェーデンにおける鉄道網は一気に拡大したが、それは外国資本に対してスウェーデン市場の魅力を開いた彼の成果によるものだと言える。

このグリーペンステッドの話で興味深いのは、彼が同時代に問題となっていたデンマークとドイツとの南ユランの国境問題(そして第二次スリースヴィ戦争)へのスウェーデンの介入に否定的な論陣を張ったことである。第二次スリースヴィ戦争の開戦前夜において、デンマーク王位を得ることで「北欧」連合王国の構築を目論んだスウェーデン/ノルウェー王カール15世は南ユラン問題への積極的な介入論者であり、スカンディナヴィア主義の論調に従うならばスウェーデン軍は第二次スリースヴィ戦争への派兵直前の状況にあった。これに対して、グリーペンステッドや法務大臣L. ド・イェールら、閣内の自由主義者の反対にあい、軍の最高指揮官でもあるカール15世は派兵を思いとどまるに至った。1850年代以来の改革によってようやく勃興するに至ったスウェーデン資本主義にとって、戦争による海外からの投資活動や国内企業の輸出の停滞が懸念されたためである。ナポレオン戦争以来、スウェーデンは国際戦争に参画せず非同盟・中立主義の外交政策を貫いてきたことが知られているが、おそらく、そうした中立主義外交の最大の危機であった第二次スリースヴィ戦争におけるこの話から理解されるべき点は、「成長の百年」を支えてきた非同盟・中立主義という外交政策は、スウェーデン市場における「組織化された資本主義」経済の恒常的継続を担保する上で必要な条件であると、その当初から理解されてきたということである。(…後にはいわゆる混合経済体制を恒常的に持続するための前提条件として、戦争や革命などによる経済活動の停滞は徹底して回避されていく…。)

市民革命を経験することなく「近代」化を達成したスウェーデンにおいて、自由主義がもつ意味はこの小文では整理できない…さらなる検討の余地がある。19世紀前半から中葉において一般的であった「アンチ正統主義としての自由主義」という歴史的意味に従うならば、スウェーデンにおける自由主義は、「資本主義の組織化」によってもたらされる体制変革として、確かに旧来の正統的な身分制社会の構造を打ち崩すものであった。そこにワレンバリ財閥のような、旧来のスウェーデン王国には存在しなかった新たな社会の主人公が登場し、世紀転換期にもなれば「資本主義の組織化」という意味での自由主義的体制変革の最終的な産物として、後年のネオ・コーポらティズムの一翼を担う様々な国民運動組織(とりわけ労働組合)が登場するからである。

(果たして、ここまで論ずると議論の飛躍になろうから、妄言として簡単に記すにとどめるが、今や古典となったI・T・ベレンドとGy・ラーンキの『ヨーロッパ周辺の近代』のように、北欧と東欧の歴史的展開の差異がどのようなところに生まれるかを比較して考える上でも、このグリーペンステッドの「資本主義の組織化」の話は参考になろうし、北欧という文脈に限って言えば、スカンディナヴィア主義的な「北欧」の理念的統合とスウェーデンにおける「資本主義の組織化」の現実的選択は常に相容れないのではないかという推論も考え得るところだ…妄言だけど。)

さてさて…僕の本来の専門は近世の国家形成史だから、近現代を専門とする人の目からすれば、この発言に誤解や短絡も見出されるだろうけれども、豊富に先行研究もあることですから、どうぞグリーペンステッドやワレンバリのようなスウェーデン的自由主義者の観点から、福祉国家の歴史的起源を探る「資本主義の組織化」の議論を、どなたか研究してみてください。

2011年5月 6日 (金)

スウェーデン歴史会議2011〜両極端にあるスウェーデンと日本〜

ゴールデンウィークを潰して、ユーテボリ大学で開催されているスウェーデン歴史会議2011に参加しています。僕自身ペーパーはありませんが、立場的にはこの会議中に開催される史学雑誌(Historisk tidskrift)の年次総会に国際編集委員の一人として参加するということもあります。

スウェーデン歴史会議は、史学雑誌の発行母体ともなっているスウェーデン歴史協会が3年に一度開催している学会で、スウェーデン中の歴史学者が一同に会する学会です。北欧諸国全体の歴史学会となると、これまた3〜4年に一度開催される北欧歴史家会議があります。後者は数カ国語が乱れ飛ぶ国際的な雰囲気に溢れ、各国の歴史学者の傾向の違いを比較できるのに対して、前者はほとんどが顔見知りで、スウェーデン語だけで対話が繰り返される親密な雰囲気に溢れています。

今回の学会の総合テーマは「スウェーデンにおける歴史〜ネイションのなかに把握できるもの」。日本と似たように、スウェーデンの歴史学界でもグローバル・ヒストリの構築という問題、ならびに歴史学という学問のグローバル化という問題をめぐって議論は盛んで、今回の総合テーマはそうしたグローバルな歴史学の展開を見据えたときに、あえてその前提として従来の研究が明らかにしてきたネイションのなかに、あるいはそうしたネイションを明らかにしてきた研究手法のなかに垣間見られるグローバル的要素を再考しようというものです。

「グローバル・ヒストリとは何か」とか、「歴史学のグローバル化はいかに実現されるか」とかいった議論は、確かに最近の日本の歴史学界でも、日本学術会議の提言や阪大の文学研究科の活動に見られるのですが、あえてネイションないしネイション研究を再考することからグローバル・ヒストリの議論を出発させる点が大きく異なり、これはいかにも「スウェーデン的」発想だと思います。

スウェーデンと日本の歴史学界と比較した場合、その問題関心のもたれ方が両者の歴史に対する意識の差から大きく異なると思います。日本の場合、歴史に対する意識は、例えば1868年の明治維新や1945年の太平洋戦争敗北…あるいは2011年の東日本大震災もそうなるでしょうか…といったターニングポイントが歴史を断絶し、転換したというイメージに強く影響されているため、歴史学における問題関心の持たれ方も、多かれ少なかれ「断絶か、連続か」を問うところから出発しています。

これに対して、スウェーデンにおける歴史への意識は、その連続性あるいは継続性に強く依拠しています。北欧諸国のなかでも、デンマークなら1864年のスレースヴィ戦争敗北や1945年のナチス・ドイツからの解放、ノルウェーなら1814年の独立や1905年のスウェーデンとの連合王国からの自立、フィンランドなら1917年の独立…といったように、大抵はそれらの国々における歴史への意識は、日本と似たように近代的ネイションの歴史的形成過程のなかで断絶ないしは転換を経験していますから、歴史学における問題関心の持たれ方も「連続か、断絶か」を問う場合が多い。

しかしスウェーデンだけは決定的に異なり、1809年のクーデタ以降、ここ2世紀にわたる近代的ネイションの形成過程において、歴史的に断絶や転換を意識させるモメントを経験していないのです。それゆえ、歴史学における問題関心の持たれ方も、そうしたネイションとしての連続性・継続性に立脚しつつ紡ぎ出される傾向にあるわけです。今回のスウェーデン歴史会議における総合テーマも、確かに世界的規模のグローバル化という今日的現象とそれに裏付けられたポストコロニアリズムのような思潮の拡散による伝統的ディシプリンの刷新の必要といった背景はありますが、そうしたときにグローバルな人的・物的ネットワークの展開などの議論にむかわず、あえてネイションの枠組みからグローバル性を問い直そうとするのは、いかにもスウェーデン的歴史意識に裏付けらたものと言えるでしょう。

連続性・継続性に裏付けられた歴史意識と対極に位置する意識をもった日本で生まれ育った僕からスウェーデン歴史会議における議論を見ると、ネイションのなかにグローバル性を見いだすとは言っても、結局、国語化されたスウェーデン語が紡ぎ出す議論でしかなく、そうした議論の枠組みそのものが近代的ネイションの思考枠にとらわれがちである…換言すれば、本来、多言語が縦横無尽に飛び交う時空間のなかで紡ぎ出されていたバルト海あるいはスカンディナヴィアの知の構造の実態を忘却しがちな傾向にある…といった印象を持ちます。

だからこそなのでしょう。今回の会議では、史学雑誌の編集メンバと話をする機会がありますが、彼らもスウェーデン歴史学のもつ限界…つまり強固な連続性の意識を否定できないがゆえに内在する思考枠の限界を意識していて、皆、口を揃えて僕のような存在との共同作業が今のスウェーデンの歴史学には必要なのだと言ってきます。一見、親密に見えるこの会議の裏には実はとても真剣な限界克服への意識が秘められているのです。そうした経験を踏まえて、僕は益々スウェーデンと日本の歴史学、あるいはそれを裏付ける歴史意識の極端な差異…対極性を意識するようになっています。

2010年10月21日 (木)

デンマークとスウェーデンの「間」を知るために

ここ一、二ヶ月、体調がすぐれないときが多く、(はじめて買った)ベッドに横たわる時間が増えました。そんなときには、スウェーデンから送られてくる文献に目を通していました。(逆説的ですが、意外とそんな時間の過ごし方も良いと思いました。)そうした文献の一つに、このブログでは何度か紹介しているルンド大学歴史学研究所のHanne Sandersさんの"Nyfiken på Danmark-Klokare på Sverige"がありました。Hanneさんは、僕の最初のルンド留学以来、家族ぐるみでつきあって頂いている研究者で、デンマーク人ですが今はスウェーデンのルンド大学に職を持ち、ルンド大学歴史学研究所のもとでデンマーク研究センターを主宰されている方でもあります。大阪で気分が悪くなる度、昔懐かしいHanneさんの文章を読みながら…いや、活字を目で追いながら、頭のなかでは優しく語りかけてくれる彼女の声をイメージしながら、ルンドでの楽しかった日々を思い出し…ついつい弱音を吐きそうになる自分にとっては、一番よい処方箋だったように思います。

このNyfiken på Danmarkという本は、研究書というよりはしっかりとした文献目録がついているとはいえ、エッセイ集といったほうが良いでしょう。各章は、無料新聞として知られるMetro誌上に寄せられたデンマークとスウェーデンの歴史的・文化的相違に関する素朴な質問に、Hanneさんが答えることから始まります。例えば「なぜ聖ルシア(サンタ・ルチア)はスウェーデンで大切な聖人なの?」なんていう疑問。これにHanneさんは歴史的経緯を踏まえながら優しい語り口で答えます。そのやりとりが終わると、例えば、上の質問の後には「デンマークらしさとスウェーデンらしさー歴史的観点から見て」という一文が続きます。ほかにも「なぜデンマークでは、クリスチャン4世を歌ったデンマーク国歌が今ではほとんど歌われないの?」→「デンマーク人とスウェーデン人にとっての民主主義」とか、「ルンド大聖堂はデンマークにとってどんな意味があるの?」→「ウレスンド・リージョンの歴史」とか、続きます…が、そんな感じで、この本は、スウェーデンの歴史、デンマークの歴史を省みた際に浮かび上がってくるスウェーデンとデンマークの「間」が語られています。単にデンマークとスウェーデンの国民性(…それこそ、ルンド大学の歴史学者たちが糾弾の対象としている近代的幻想なわけですが…)の違いを列挙するのではなく、最後はデンマークとスウェーデンを包含するウレスンド・リージョンの歴史という話で閉じられるあたりが、21世紀に生きる「北欧」の歴史学者らしい。

それは「違い」というよりは、「間」と僕は言うべきだと思うのですが、今でこそ「北欧の一体性」のようなイメージが広く世界中で共有されるようになっているけれど、例え、言語面で似通っていても、宗教面で似通っていても、文化面で似通っていても…デンマークとスウェーデンが、過去一千年の歴史のなかで一つの国を構成しなかった(…できなかった…)ことは、厳然たる事実です。「一つの北欧」を言うのは誠に簡単なことですが、しかし、デンマークとスウェーデンの間に今も見え隠れする「間」を理解することなく、「一つの北欧」を言うのは暴論に近いものを感じています。そんなことから、阪大外国語学部のデンマーク語専攻とスウェーデン語専攻の学生には、コーヒーのCMをもじって「北欧、北欧と言う前に(デンマークとスウェーデンの)違いのわかる大人になれ!」とよく言って…しらけられいてるのですが、このHanneさんの本は、彼女のスウェーデン語も実に読みやすいので、そんな学生たちに真っ先に読んでもらいたい…あるいは「北欧」を理念先行ではなく、それを構成している諸地域の歴史や文化の実態に即して理解したいと思っている真摯な日本の方々に読んでもらいたいと思うものです。ほんと…癒されます。

2010年10月20日 (水)

Historisk Tidskriftとスウェーデン歴史学界の国際化

先週東京出張から帰ってみると、スウェーデンの史学雑誌(Historisk tidskrift)の2010年3号が届いていました。スウェーデンのHTは1881年以来、王立文学・歴史・好古アカデミーの支援を受けて、スウェーデン歴史学協会が刊行し続けている学術誌。(ちなみに日本の史学雑誌は1889年創刊。)どういう話で僕の情報が伝わったのか定かではないのですが、今年の5月頃に突然スウェーデン歴史学協会の秘書を務めている方からメールをもらい、「スウェーデンのHTは「国際」化を務めているので是非協力を…」ということで国際編集委員への就任依頼がありました。今の学内での仕事の兼ね合いから悩みに悩み、いろんな方の助言を得て最終的にOKの返事を出したのですが、プッツリと連絡が途絶えたのでそのまま放置していました。先週手にした2010年3号の表紙をめくると、docentの肩書きで僕の名前が入っていました。

「国際」化をめざすHTの国際編集委員といっても、他のメンバはフィンランド、デンマーク、イギリス、フランス、ドイツ…といったヨーロッパの研究者で固められており、非ヨーロッパでは僕一人。名前は所属研究機関のある都市名とともにリストアップされているのですが、"Osaka"という都市名とともに掲げられた名前は正直違和感があります。(残念ながら、我がOsakaの名前は、Tokyo、Kyoto、Hiroshima、Nagasakiに比べると、スウェーデンでは圧倒的に知られていないのです。だから僕を日本人だとわからない人も多いでしょう。)まだ実際の仕事はまわってきていませんが、来年5月はユーテボリでのスウェーデン歴史家会議への出席が義務づけられ、8月のトロムソでの北欧歴史家会議と併せて忙しくなりそうです。(来年5月は阪大創立80周年記念のイベントが続き、すでに国際シンポの予定も入っているのですが、間髪入れずユーテボリへの出張が続きます。)

さて、物は試し…とばかりに同僚のMくんに最新のHTを見せてみました。パッと見て彼が驚いたのは、すべての論文、書評などの記事がスウェーデン語で書かれているということ。HTは歴史叙述や歴史観など歴史学の根本に関わる問題などにも野心的に取り組んでいますが、スウェーデン語だけで書かれている(サマリーは英語ですが)記事では、「国際」化したいというスウェーデン歴史学協会の意識とは裏腹に、諸外国で読者を増やしスウェーデンの歴史学界の最先端を知らしめるには道程が遠いでしょう。スウェーデンは日本と比べれば日常会話レベルの英語はみな上手ですし、スウェーデンの研究者も欧米の研究雑誌や研究書はよく読んでいる。けれど逆に、優秀な研究は数多くあれどもスウェーデン語でしかパブリッシュしないスウェーデンの歴史学界の動向は世界的にあまり知られていません。(これはどうもスウェーデンでも歴史学界に見られるある意味「保守」的な傾向で、スウェーデンでも社会科学の分野などでは英語でパブリッシュされることは普通です。)

それゆえ、興味深いことに、スウェーデンの優秀な研究者は欧米の歴史学者の著作に多くを学んでいても、欧米の研究者に似通ったテーマで研究しているスウェーデンの歴史学者のことを尋ねても、彼らが知らないということはよくあることで、なぜか僕などが両者の仲介役を買って出たりする。ん…?なんだか奇妙な話に思いませんか?こうした欧米の歴史学界とスウェーデンの歴史学界との架け橋に、なぜか僕のような欧米の学界動向とスウェーデンの学界動向の両方を知る日本人の研究者が活きる可能性があります。世界中どこへ出張しても驚かれるのは、「なんで日本には、世界中のあらゆる場所、あらゆる時代の研究者がいるのか?」ということ。明治以来の紆余曲折の結果とはいえ、はからずも日本の歴史学界は、普段邂逅する機会の少ない世界諸地域の歴史学界を取り結ぶ架け橋の役割を担える位置にあります。

HTの仕事から僕は日本に生きる歴史学研究者としてそのような可能性を感じていますが、スウェーデン語でばかり情報発信している傾向や、未だにデジタライズの「デ」の字も進めようとしない頑な方針(…ここらへんはスウェーデンでもルンドなどのほうが先駆的です…)など、HTの「国際」化の壁になっている点は、非ヨーロッパ系唯一の委員としては指弾していきたいところ。というか…スウェーデンの歴史学者はよく冗談で「デンマークの歴史学者は抽象的発想ができない」とか馬鹿にして、優越感に浸っていたりするのですけれども(…真剣に言っている訳ではなく、歴史学者の間での冗談ですよ…)、そんな冗談を言っている間に「国際」化から取り残されてしまいますぞ…スウェーデン様。

2010年3月27日 (土)

『リネーの帝国』への道(5)こちらは発言未完!

今月最後の出張で上京する新幹線の車中にてこの発言を書いている。とにかく今月は外で人と会う機会が多かった。昔からよき付き合いのある方々が大阪を訪れてくれて、その都度楽しい話に花が咲いた。今月お会いできた方々にあらためて感謝を申し上げたい。で、そうした方々との話のなかで聞かれたことの一つが、「『リネーの帝国』はどうなった?」というものだ。はい!仕事で忙しかったり、体調が悪かったり…が続いたことは事実だが、時間をとれる車中やトイレ中、就寝前のソファーの上で『リネーの帝国』の構想を着々と進めている。

この春は3年前に研究代表者として獲得した科研「近世ヨーロッパ周縁世界における戦争と「帝国」再編」の最終年度にあたり、僕なりの「バルト海帝国」論と『リネーの帝国』とを結ぶ構想メモを兼ねる意味で成果報告書を書き上げたりもしていた。僕の『リネーの帝国』構想における「帝国」とは、第一に近世バルト海世界におけるスウェーデン王権を頂点とした広域支配圏(いわゆる通称「バルト海帝国」)に見られた複合的国家編成を念頭においてもちいている。『リネーの帝国』構想では、大北方戦争や七年戦争といった国際戦争での経験によって複合的国家編成がいかなる変化をとげたのかに注目したいと思っている。第二に比喩的な意味でもあえて「帝国」という言葉をもちいている。それは、スウェーデンに拠点を構えたリネーを頂点としながら、世界中に派遣された弟子たちと共に築かれた(…それは軍事組織にも喩えられるものかも知れない…)新たな世界認識を用意した万物分類の「帝国」といった意味である。

(深夜に帰阪するも爆睡して朝を迎えてしまいました。この発言、また時間のあるときに続けます。)

2010年3月26日 (金)

『リネーの帝国』への道(4)

どうしたことか、ブログ閲覧数のインフレ状態が続いている(笑)。気分転換に、久しぶりに近いうちに執筆したいと思っている『リンネの帝国』あらため『リネーの帝国』(…日本ではリンネと呼んだほうが圧倒的に通じるのだけれども、スウェーデン語に近いカナ表記としてリネーで統一しようという機運が高まり、やはり正しいものを追い求めようとするならば僕もそれに与するものだから…)の構想に関連することを書いてみよう。

年度末ということで今日は今年度最後の大学院の授業があったのだが、この授業では昨年のウップサーラ大学滞在の成果を踏まえて、ここ数ヶ月は昨年4月にカリフォルニア大学リヴァーサイド校の美術史学部にいらっしゃる近世美術史研究者のK.ネヴィルさんが書いた"Gothicism and Early Modern Historical Ethnography", Journal of the History of Ideas, April 2009を輪読していた。これがとてつもなく面白い論文で、近世における「もう一つの普遍的ヨーロッパ」観を下支えしたゴート主義の広域的展開が論じられている。

僕の専門は近世スウェーデンだから、近世スウェーデンにおけるゴート主義の展開に関心があるけれども、かつてのゴート族の移動が北欧から東欧・南欧へと広域的に展開したことに鑑みれば、自らをゴート族の末裔と主張するゴート主義は、北欧だけでなく東欧・南欧においても多発するものである。それゆえ、ネヴィルさんは国際ゴート主義なる概念が近世に存在していたかどうかと問うのであるが、僕の関心はむしろ近代におけるナショナリズムへの連続性を考えたときに、近世におけるゴート主義の地域的偏差の由来へとむかう。

この論文のなかでとりわけ興味深いのは、神聖ローマ帝国におけるハプスブルク家の権力拡張の過程において、(例によって語源学的説明による歴史・地理叙述の横領を積み重ねながら)ハプスブルク権力の正統性の歴史的根拠が、中東欧に拡がるハプスブルク家領がゴート族由来の土地であるという点から求められていたという主張だ。ある意味、全ヨーロッパ的観点にたつと16〜17世紀という時代は、スペインでも、ドイツでも、スウェーデンでも、競って自らの民族の歴史的起源としてゴート族を主張するような「ゴート族の争奪」の時代だったように見える。

問題は、神聖ローマ帝国におけるゴート主義とスウェーデンにおけるゴート主義の比較において、ゴート族の系譜につながろうとする古代性の追求のための手法が語源学的知識に基づいていたために、17世紀も後半くらいになると結果的にゲルマン系言語を使用している地域はいずれもがゴート族の末裔を謳うようになってしまい、地域的偏差が曖昧になる点だ。例えば、17世紀後半にハプスブルク家領の歴史叙述を担ったH.J.ワグナー・フォン・ワーゲンフェルスなどは、もともとは16世紀にスウェーデンのJ.マグヌスあたりが言っていた言説を横領しつつも、独自のゲルマン系言語の解釈からドイツにおけるゴート主義の正統性を唱えている。「ゴートという名辞はドイツの言葉に言うグート(英語で言うグッド)であり、ドイツの言葉で現在ウー(u)とされている箇所はかつてはオー(o)と用いられていた。この傾向は現在でも古代のゴート族が発祥した北方の地域では地名に残されている。例えば、そうした地域ではAltenburgやKreysburg、Dickburgといったように都市を呼ばず、AltenborgやKreysborg、Dickborgなどのように呼んでいる。このような事例からゴートとグートは同じ意味をもつ単語であり、ゴート族とドイツ民族(Teutschen)は単一の民族としてみなされる。」といった感じだ。

このような17世紀後半における語源学的知見に基づいたゴート主義の争奪戦とも言うべき情況を踏まえて、スウェーデンにおけるゴート主義を振り返るならば、そうした知見に基づく民族の古代性の追求では、同じゲルマン系言語を用いているドイツとの差別化が図れなくなっていたとも言える。つまり僕がこの発言で言いたいことは、16世紀のJ.マグヌス以来築き上げられ17世紀後半のO.リュードベックによって体系化され、スウェーデン史に言う「大国の時代」におけるバルト海支配の正統性の論拠を用意したとされるスウェーデンのゴート主義は、17世紀後半の時点でドイツに生きる者と比較して自らの民族の特殊性を主張するには、主張の論拠の提示方法に限界があったということだ。言語的知見などに立った古代性の追求に基づいたゴート主義の限界こそ、次の時代にリネーらによる新たな世界観呈示の前提条件になっていたのではないかと思うのだ。

今回の発言はここまでにしておこう。

2010年2月 4日 (木)

「バルト海の夢」という警句

Oestersjoen左の地図を見てもらいたい。この地図は、先日話題にしたDigitala historiska kartorに所収された17世紀スウェーデンのバルト海世界への版図拡張を扱ったスライドにある「スウェーデンの内海としてのバルト海の夢」と題された地図である。面白いでしょう!ご覧の通り、これはバルト海世界の地図を時計回りに90度回転させた地図なのだけれども、右上に付せられた地中海を内海としたローマ帝国の地図と比べてみると、ストックホルムをローマに、バルト海を地中海に(…フィンランドをエジプト、バルト海東岸をチュニジア、ゴットランドをシチリア、ウレスンド(エーアスン)海峡をジブラルタル海峡、スコーネからユータランドをイベリア半島…といったように)準えると、バルト海帝国がローマ帝国に見えてくる…よね?見えてくるでしょう?これはこの歴史地図を作った編者の「お遊び」なのではなく、実際にストックホルムを中心としたこのような時計回りにひっくり返った地図は、バルト海帝国華やかなりし17世紀頃に「寓意」的な目的をもってつくられていた。(ローマ帝国由来のインペリウムはバルト海帝国へ継承されてはいないけれど(…だからこそ三十年戦争に参加して神聖ローマ帝国の諸侯となり、神聖ローマ皇帝の帝位をうかがう可能性を得ようとしたとも言える…)、ルネサンス以降の古典知の普及を思えば、やはりローマ帝国への憧憬が強かったということなのだろう。)僕は一昨年前くらいから自らの生きる生活圏を支える方位感覚も、同時代的・同文化的心象に根拠づけられた認識座標の上で変幻しうる「相対」的なものだ…とことあるごとに主張しているのだけれども、この地図のような見方は、「北は地表に沿って北極点に向かう」と思い込んでいる僕らの近代的方位感覚では絶対に見えてこないバルト海帝国の見方であり、近代的発想や近代的感覚の前倒しでは近世に独特な世界観を的確に捉えられないという警句を含んだ見方である(と僕は思う)。

2009年12月16日 (水)

井内太郎先生へのお答え

当初この発言は先週のアウグスブルク滞在で学んだことを書こうと思いましたが、今日久しぶりに箕面キャンパスへ行ってポストを開けてみるとそこに『史学雑誌』第118編第10号が届いていて、そこに先週アウグスブルクで数日間を共に過ごした広島大の井内太郎先生の筆で2008年5月に刊行された近藤和彦編『歴史的ヨーロッパの政治社会』(山川出版社)の書評が掲載されていたので、発言内容を急遽変更。(その前には橋本くんの筆による書評が掲載されていました。)『政治社会』は浩瀚な論文集であるから、それぞれの内容を把握して的確に評することは大変な作業だったろうと思います。論集が浩瀚ならば書評も労作ということです。だからまずはこうして書評を整理いただいた井内先生に心から感謝します。その書評のなかで井内先生が「古谷氏の見解を聞いてみたいところである。」という点が二つほどあげられていたので、今回の発言は井内先生へのお答えにしようと思います。(というか、先週アウグスブルクでお会いして酒杯まで酌み交わしていたのだから、先生ったらそこで聞いてくれればよかったのに!この話をする暇がないほどにアウグスブルクでの時間は濃密だった…ということにしておきましょう、ね、先生!。)

(1)「これをスウェーデンの近代ネーションの一つの到達点と見てよいのか、たとえば一九世紀以降に近代性(モデルネ)などの影響をうけて、その意味内容がさらに変容していくことになるのか。」(117頁下段より抜粋)

まずこの点についてですが、この論文は啓蒙専制体制を迎える時期までを対象にしていますけれど、その後の近代性との関係においてスウェーデンにおける帰属概念を論じようとするならば、ナショーンというラテン語起源の概念とともにフォルクというゲルマン語系概念もくわえて検討されるべきだろうと思っています。つまりこの論文で論じられているナショーンは一つの到達点ではなく、別の議論も加わることで近代においても変容をとげるということです。ここで近代性をどのように定義づけるかによって井内先生からのご指摘への回答も変わってきますが、例えば18世紀後半のヘルダー以降、ゲルマン語系文化圏にて新たに普及した「共通の言語を基礎に歴史的に生成した特有の個性をもつ文化的共同体」としての「フォルク」理解を、19世紀から20世紀半ば(ナポレオン戦争から第二次世界大戦)のゲルマン語系文化圏における帰属意識を基礎づけた「近代」的思潮の特徴だとするならば、スウェーデンの帰属概念の近代的展開としてナショーンだけではなく、フォルクというまた別の帰属概念を論ずる必要があろうかと思います。この論文については、ひろく『歴史的ヨーロッパの政治社会』を扱う共同研究から問題関心が陶冶されたため、他地域・他時代との比較して頂く際に考えて頂きやすいナショーン概念に議論を集中しましたが、スウェーデン語におけるナショーンとフォルクの概念の差異と各々の歴史的展開については、『政治社会』における論文の落ち穂拾いのような形で「スウェーデンにおける民族概念の歴史的展開〜民族理解と自然認識」、『EX ORIENTE』16巻、2009年に簡単に整理しました。実のところ、近代以降のスウェーデン語の用法では、「国民」や「民族」を言う場合に「ナショーン」よりも「フォルク」のほうが多用される実態があります。「ナショーン」がラテン語由来の概念であるとともに、それぞれの時代にスウェーデンが直面した政治的・社会的課題の克服を同時代のイデオローグたちが論じる際に「あるべきスウェーデン人」像を示す帰属範疇の枠組みとして「ナショーン」は用いられる傾向があり、他方「フォルク」は、スウェーデンという独特な自然環境に生き、集産主義のような文化的・社会的性向を等しく持つに至った人間集団そのものを叙述する際に用いられる傾向があります。20世紀に入りスウェーデン社会民主労働党は、スウェーデン型福祉国家の設立目標として「フォルク・ヘンメット(国民の家)」という言葉を掲げましたが、(あるいはナチスにおけるフォルク観なども比較対象として含めるとおもしろいと思うのですが)スウェーデンをはじめゲルマン語系文化圏における近代ネーションの一つの到達点としては、そうした用法に見られる「フォルク」をさらに考える必要があろうかと思います。

(2)「また複合国家論の立場からすると、かつてのスコーネの固有のナショーンと新たなスウェーデンの普遍的なナショーンがいかなる関係を切り結ぶことになるのだろうか。」(117頁下段より抜粋)

複合国家論の立場からすると、複合国家を編成した各々の地域に懐胎した帰属意識は重層性をもっていることになります。つまり地域固有のネーション集団としての帰属意識と、それらが包括される国家のような広域圏への帰属意識は重層的に重なり合って存在していると考えられます。それぞれの地域に生きる民衆に懐胎する重層的な帰属意識のうち、具体的にどれが、どのように表明されるかは、それが表明される場での立ち位置によって変幻します。王国議会のような場において他地域・他身分に対抗する言説の際には、複合国家を構成している(A. スミスの言い方を借りればエスノ・テリトリアルな)地域固有のネーション集団各々の立場が主張されます。しかし戦争のように他国家との対抗が論じられる言説では、愛国主義的な立場で複合国家を統合する広域圏への帰属意識が主張されます。カルマル連合末期の北欧三王国間の対抗関係を見ても、パトリオティズムは近世以前から確かにあったと言えると思います。しかしそうしたパトリオティズムの対象については、慎重にならざるをえません。広域的な帰属範疇の対象たる国家の捉えられ方が、中世・近世・近代では異なるからです。地域固有のネーション意識をもった集団は、中世以来のスウェーデン国法の適用される「王国」への帰属意識が確かにありますが、これは『政治社会』で論じた18世紀以降の新たなスウェーデンの普遍的なナショーンとは別ものであり、S. レイノルズの言い方を借りれば中世以来伝統的に地域住民に共有されてきたrealmへの帰属意識の継続と理解すべきものです。近世以降、スウェーデンの場合には戦争を経験するなかでstateとしての機能系がバルト海全体に広がる範囲で構築されましたが、それは中世以来のrealmの範囲を越えるものであり、そのズレこそが複合国家としての「バルト海帝国」を単純にスウェーデンと定義できない大きな理由でした。しかし大北方戦争以降、stateの権能が及ぶ範囲と住民に共有された中世以来のrealmの範囲がほぼ一致することによって、まずはstate運営上の必要から新たなスウェーデンの枠組みが同時代のイデオローグたちによって語られ、複合国家を統合する「あるべきスウェーデン人」の姿があれこれ議論されるようになったわけです。『政治社会』の論文では、そうしたイデオローグたちの言説分析に基づいた議論でしたので上からの視点に終始した話になりました。ですから、地域固有のナショーン意識をもった住民が、伝統的な広域的帰属範疇であるrealmとの関係において新たな「あるべきスウェーデン人」像をどのように受容していったか(あるいは馴化されていったか)を解明することは今後の1つの課題と言えるでしょう。幸いにしてスウェーデンの場合には伝統的なrealm概念を下支えし、地域固有のナショーンが多数参加した王国議会が存在します。ここは地域固有のナショーンの自己表明の場であり、自らが帰属するに理想化された広域的範疇であるrealmを語る場であり、国家指導層からすれば複合国家を構成する各々のナショーンの立場を調停する場であり(…複合国家の君主は対内的も、対外的にも調停者として振る舞うことが多いのではないでしょうか…)、stateとしての施策を実現するための国家指導層と地域固有のナショーンとの合意形成の場でもありますから、realmからstateへの国家像の変化に対応した帰属意識の変化を見るには絶好の検討対象と言えます。(こうした議論のなかでスコーネが興味深い理由は、スコーネ・ナショーンにとってのrealmが本来ならばデンマークだと思われるのに、どうも彼らが語る理想的「王国」とはデンマークとは別にあるようだということにあり、彼らの理想的「王国」が新たな帰属先となったスウェーデンに直接投影された…それゆえ、スコーネ・ナショーンの意図を汲み取ったすみやかなるスコーネ統合だったような気がしています。)

いずれにせよ近世スウェーデンを対象とした複合国家、ないしはそれを統合する軸としての帰属意識の問題は、近代主義的なナショナリズム論を批判し、近世の実態により即した形で近世に独特な国家形態・帰属意識を析出しようと、ここ10年ほどにスウェーデン本国で盛り上がってきたものです。(ナショナリズムという概念については、近世においてはパトリオティックで、エスノ・テリトリアルなレグナリズムとでも言う概念で置き換えられねばならないと思っています。)ブリテンや神聖ローマ帝国といった複合国家の厚みのある研究史から刺激されるところは大きいので、是非今後ともご指導のほどよろしくお願いします。

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