最近のトラックバック

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

学問・資格

2017年3月31日 (金)

今、歴史的ヨーロッパを問うこと:『礫岩のようなヨーロッパ』と世界史

個人的な見解を述べた文章ですが、「まとめ」の章をつけなかった『礫岩のようなヨーロッパ』についてごく簡単に総括した文章でもあるので、久しぶりにこのプライベートなブログを活用して、これを掲載します。以下は2017年3月29日に開催された公開シンポジウム「今、歴史的ヨーロッパを問うこと:『礫岩のようなヨーロッパ』と世界史」の開会に際して話した言葉です。当日は70名ほどの参加者を得て、「礫岩」という直喩表現を補助線としながら日本史・東洋史・西洋史を架橋するような共同研究に求められる視座/課題が確認されました。その報告については、いずれまたまとめましょう。『礫岩のようなヨーロッパ』で伝えたかったことがどのようなことにあるのか、参考までに以下の文章を公開します。

「今日は、3日後には新年度を迎えようとする年度の移り目の誠に忙しい時に、このように多くの方のご参集を得ましたこと、今日のシンポジウムの主催者のひとりとして感謝申し上げます。今日のシンポジウムを開催するにあたって、僭越ながら、このシンポジウムを主催している共同研究「歴史的ヨーロッパにおける複合政体のダイナミズムに関する国際比較研究」の代表者として、「今、歴史的ヨーロッパを問うこと:『礫岩のようなヨーロッパ』と世界史と」銘打ちましたこの会の主旨を説明をしたいと思います。

世界史におけるヨーロッパ史の特権的な叙述のあり方について議論が続けられいています。これは、いささか言い古された観のある議論ではありますが、繰り返し問題の提起がなされているという情況に僕たちは常に意識を払わねばなりません。今日では、従来の国民国家史を集約させるかたちで描かれてきた世界史や、ヨーロッパ史をひとつの中心として描くような世界史が批判され、そうした世界史観を乗り越えるようとする試みが様々に続けられています。このような新たな世界史像の模索が試みられている今日、僕たちがあらためてヨーロッパ史を問う意味はどのように見いだされるものなのでしょうか。

僕たちは、2016年7月に『礫岩のようなヨーロッパ』を公にしました。この論集もまたヨーロッパを模範とするような初期近代観を批判し、地域の実態に基づく近世観を提示しようとした共同研究の成果です。僕たちの論集は、包括的な国制をもたず、権力の複合体としての性格をもった秩序を検討の俎上にあげました。それは、「一定の領域内で主権を行使する統一国家(主権国家)の歴史的形成を問う」といった近代主義的な問題関心にたっては確認することのできない秩序です。確かにそうした秩序は、近代国家の初期段階として「国王に主権を集中して一定の領域を一元的に支配する主権国家を形成した」と理解するような絶対主義国家観を批判する20世紀後半以降の歴史学界のなかでも、例えば「複合国家」や「複合君主政」として語られ、知られてきたてきたものです。しかしながら、僕たちの論集は、そうした複合的な政治秩序の例を単に紹介したものではありません。

『礫岩のようなヨーロッパ』は、秩序問題をめぐる地域住民の戦略や交渉を検討することから、フォーテスキューが同時代の用語として語った「王と政治共同体の統治」のように、歴史的ヨーロッパに変動をもたらした政治社会の個性を見出す作業でした。「礫岩のような政体」に属した地域には、古来の法や慣習を維持しながら君主との関係をもった場合もあれば、それを改めて君主政との間に法の一体性を築いて関係をもった地域もあります。そうした個性あふれる地域の存在とそこに生きた人間集団の能動的な姿を前提としながら、君主と各々の地域における政治共同体との間にある可塑性をもった関係に僕たちは着目しました。

君主と政治共同体との関係は、公共体の安寧維持を目的に、社団を創設したり、操作したりできる主権者として「最適」な君主を、政治共同体がそのときどきの情況に応じた戦略に基づきつつ、取捨選択することで規定されてきたと言えるでしょうか。それは、支配の形態としては混合君主政を前提とした関係です。そして、統治の形態としては、君主と、諸身分や都市など、さまざまな政治共同体との間では多様な権利義務関係をのうえに実現されたものです。(註:近世ヨーロッパにおける語感としての「支配の形態(forma imperii)」と「統治の形態(forma regiminis)」の区別については、共和主義的な君主政のあり方などを指摘したカントの『永遠平和のために』を参照してください。)

とまれ「礫岩のような政体」論は、モザイク状の政治秩序の実態をただ紹介するのではなく、情況によって君主と政治共同体との間に生まれる引力や斥力の作用を検討し、歴史的ヨーロッパの政治社会を変動させた要因を析出する作業でした。ここから見いだされた歴史的ヨーロッパの個性とは、君主と政治共同体との間に合意が形成されている場合には、「礫岩」のように安定し復元力をもった秩序が維持され、そしてそれが動揺した場合には秩序が崩れる姿です。ここにに確認された個性は、例えば今日のブレクジットという事態でも確認されます。高等法院と最高裁判所によるイングランド政府へEU離脱の議会立法を求めた判断に、僕たちは今日でもイングランドの政治社会に懐胎する王と政治共同体の統治の姿を見いだします。

僕たちは、個性あふれる様々な地域と人間集団を包摂しながらも、絶えざる変容の可能性をもった秩序を表現するために、「礫岩のような」という直喩表現を用いました。歴史学研究の用語法として、こうした直喩表現は馴染みの薄いものかもしれません。しかし、ヨーロッパ中心主義や近代中心主義を批判しながら、ユーラシアの地域に固有な権力社会の実態を表現する際に、そうした直喩表現がときに戦略的に選ばれてきたことを指摘しておきたいと思います。例えば、東南アジア史研究では、1982年にアメリカの歴史学者オリバー・ウォルタースが「マンダラのような国家」という言い方で、どこまでが中央の支配する領域か明確ではない重層的で多重的な権力関係の錯綜した秩序を表現しました。もちろん、こうした直喩表現そのものの意義をここで問うつもりはありません。大切なことは、「マンダラ国家」論の場合、中央や地方といった階層関係を確認できない重層的な政治秩序のあり方が、父系性・母系性の両性社会を背景としながら社会的地位が血筋だけで決まらないといった、東南アジアに独特な情況の確認から導き出されていることです。『礫岩のようなヨーロッパ』もまた、ウォルタースの議論に似て、複合的な権力関係の検討から地域の個性の確認へつながっています。

「今、歴史的ヨーロッパを問うこと」とは、すなわち、こうした地域にみられた個性を確認しながら、世界の諸地域と対話可能なヨーロッパへと、その地域像を「中性」化することだと言えるのかも知れません。複合的な政治秩序という観点に立てば、東南アジア史研究におけるマンダラ国家論をはじめ、日本史研究における水林彪先生らによる複合国家論など、秩序と権力をめぐる人間集団の関係のなかに、それぞれの地域の個性を描き出しています。これらを踏まえるならば、私たちは、秩序や権力をめぐる人間集団の行動のヴァリアントのなかに、日本史、東洋史、西洋史を架橋してユーラシアの各地の個性を特徴づける比較の視点、そしてグローバルヒストリーなどとは異なる観点からも新たな世界史の構築にむけて提供できる視点を見出せるのではないでしょうか。(註:僕は、グローバルヒストリー研究について、同時代における地域間の関係性を問う視角として重要であるし、有効だと思っています。)そうした議論の方向は、複合的な政治秩序をまとめあげている背景や論理の差異の確認からはじまり、はては僕たちの日本語の語彙では「国家」という言葉でしか語りえなかった歴史的な政治秩序の外延や内実について議論は至るものでしょう。とまれ、今日のこのシンポジウムは、「礫岩」という言葉に込められた意味あいを補助線としながら、日本史、東洋史、西洋史を架橋する歴史の作業場の可能性を考えるきっかけとなれば幸いに存じます。」

2015年5月19日 (火)

「礫岩国家」論へのコメントの回答

信州大学の伊藤盡先生から、ひろく皆さんに知って頂けたらありがたい件でご質問を頂きましたので、別項を設けて回答いたします。
「中世文献学が16〜18世紀のnationの概念の構築に寄与したことは、イングランドをはじめとする新教君主国では当然と思えますが、考えてみれば、イングランドにおけるリーランドやコトン卿、デンマーク・アイスランドにおけるアールニ・マグヌースソンにあたる人物が、スウェーデンでは誰にあたるのか、これまで寡聞にして知りません。スウェーデンでは中世前期まで遡るとGötland征服あたりから問題にしなければならないといったことが背景にあるのかも知れませんし、私の無知蒙昧のせいかも知れませんが、近世のヴァーサ朝君主国は中世とは一線を画し、過去はどうあれ新しい国家(王朝)を起ち上げたというイメージを持ってしまっています。その「新しさ」こそが「礫岩国家」と理解してもよいでしょうか?」
「礫岩国家」の研究アプローチに従って近世スカンディナヴィアの「複合君主国家」を観察する際、地域社会の保護者になった君主権力側も、それに服属した地域社会側も、「古きこと」をそれぞれの観点から準用しながら自らの立場を主張したことは、両者の紐帯がどのように形成されたかを示す上で重要な論点のひとつです。ただし「古きこと」の準用ばかりを僕たちが議論するとそれは原初主義的な地域理解に繋がってしまう危険性がありますので、当時の「古きこと」の論理も、実のところ新しく構築されていった「複合君主国家」の実現するレスプブリカとの関係のなかで、「新しさ」を身につけていった点に注意を払う必要があります。(グスタフソンの「スコーネはスウェーデンによってつくられた」論を参考にすれば。)
ヴァーサ朝君主国が、広く見れば普遍的なヨーロッパ世界の軍事的保護者としての論理(三十年戦争が良い例)、狭く見ても普遍的なバルト海世界の保護者としての論理として採用したものとして、「スウェーデン民族の起源はゴート族にあり、ゴート族がローマ帝国以後のヨーロッパ文明の構築に与えた意味を考えれば、ヨーロッパ文明の起源はスウェーデンにある」といったヨーロッパ文明ゴート起源説が知られています。これはやがて19世紀前半の国際問題との関係で矮小化され、「なぜスウェーデンはロシアに敗北したのか?それは民族の祖であるゴート族の気風が失われたからである。」といった論調から、単に「スウェーデンの民族的起源はユータランドを故地とするゴート族にある。」といった考えになってしまいました。16〜17世紀におけるヨーロッパ文明ゴート起源説と19世紀におけるゴート主義には、普遍的にヨーロッパ世界でのレスプブリカ構築を求めた複合君主国家の理念と、それが失われスウェーデンに限定された範囲でのレスプブリカ構築を求めた国民国家の理念の違いがあることをまず紹介しておきます。
「礫岩国家」論で用いられる述語として「普遍君主」という言葉があります。独自の政体をもった個別の地域社会を包摂する普遍的な論理を用意した君主という意味です。(同時代の史料用語で言えば、保護者として認められた際の具体的な統治権を、ヴァーサ朝君主国でもインペリウムと表し、後世のスウェーデンの歴史家はスウェーデン語でそれをヴェルデと表しました。スウェーデン語で言う「ウステルシューヴェルデット」が「バルト海世界でヴァーサ朝君主のインペリウムが認められた広域圏」となり、これを便宜的に日本語では「バルト海帝国」と呼びます。)ヴァーサ朝君主国以降の「普遍君主」は、ローマとは別の普遍ヨーロッパの論理を切り拓いたゴートに着目してゴートにつながる「古きこと」が主張されましたが、実際問題として、この主張はバルト海東岸部に対してヴァーサ朝君主を「普遍君主」として認めさせることが問題となっていた16世紀以降に「新しく」造られた論理です。ヨハンネス・マグヌスがスウェーデン王の系譜の前にゴート王の系譜を付け加えることで、ヴァーサ朝の二代目の君主となったエーリックが「エーリック14世」になってしまった話はよく知られています。
こうした議論についてイングランドのリーランドやコトン、デンマークにおけるアルニ・マグヌースソンらに比肩するような事績を残した人物としては、ヨーロッパ文明ゴート起源説の構築に携わった人物たち(ニルス・ラグヴァルズソン、エリクス・オーライ、ヨハンネスとオラウスのマグヌス兄弟、ヨハンネス・ブレウス、オーロフ・リュードベックあたり)が紹介されます。しかしこの主張がヴァーサ朝君主国の公定論理として採用され、「古きこと」を証明する目的で文献・遺物を収集する活動を君主国が支援したという意味では、17世紀にウップサーラに創設された集古顧問会議の活動が重要であり、一人のイデオローグの事績に注目するというよりは、そこに集った博士者たち(ポリュヒストリアン)の集団的活動に注目すべきだと思っています。この件について、僕は清水育男先生の退職記念論文集に献呈した『王国の叙法』のなかでは、「ウップサーラ・コネクション」として論じました。)
問題は、このゴートにつながる論理がスウェーデンに古来より存在した論理ではなく、15世紀前半にバーゼル公会議に出席して普遍的なローマ・カトリックのヨーロッパ論と接したラグヴァルズソンの主張以降、創られた議論だったという点です。しかし、その素材となる議論がスウェーデンになかった訳ではありません。これに関しては、古い北欧語で記された文献に造詣の深い伊藤先生からのご指摘にもあるように、「スウェーデンでは中世前期まで遡るとGötland征服あたりから問題にしなければなりません」。ユータランドはスカンディナヴィア半島南部にあって、紀元後には東方ゲルマンの諸部族として紹介されていくゴート族などが、そこへ南下する以前の紀元前に居住していた土地ではないかと推定されている場所です。ユータランドに残った部族のひとつとしてユータ族があります。
一言で言えば、スウェーデンの王国としての構築過程は、ウップサーラを中心とした祭祀共同体の司祭として宗教的権威をもったスヴェーア族の王権が、同じ信仰を共有した周辺の部族社会を包摂する過程だったと推測されています。しかしスヴェーアランドへのユータランドの統合に関してだけは、デンマーク、ノルウェー、キリスト教の布教で主導権を握ろうとする様々な教会勢力といった外部ファクタによって、紆余曲折の歴史が長く続きます。最終的にユータランドの統合を完全に完成させたのは、フィンランド十字軍の実績とそのために創られた封建的軍事制度によって、北方バルト海世界のキリスト教信仰への軍事的保護者として認められたビャルボー朝君主の登場する13世紀後半と言えるでしょう。しかし実のところビャルボー家は、スヴェーア族の系譜ではなくユータ族の系譜に連なります。つまり中世のスウェーデン王国はスヴェーア族の系譜につながる王によって統合されたのではなく、ユータ族の系譜につながる王によって統合されたということになります。
13〜14世紀にかけてのビャルボー家の事績は、例えば韻文形式をもった韻文年代記のようなかたちで15世紀頃にまとめられていきましたが、そこでは「スウェーデン王国の系譜がユータランドにつながる」ことが積極的に示されます。これらの年代記は、ほぼ同時代から17世紀にかけてゴート主義を創造したオーライやマグヌスらが王国の系譜を記すにあたって重要な根拠「史料」として活用されました。これが「ユータ(göter)主義からゴート(goter)主義へ」の「古きこと」をめぐる主張の転換です。単に「ウムラウトが抜けたから」だとか、「ユータとゴートが同じ部族と考えられていた」とか言った話ではありません。かくの如く、それぞれの時代の君主権力側によって参照された「古きこと」の論理は、同時代のコンテクストによって「新しく」創造されていく過程が見られました。(このあたりの話は、現在脱稿間際の『バルト海帝国』という小著にきちんと書いています。)

2015年5月18日 (月)

「礫岩国家」論ふたたび〜第65回日本西洋史学会に参加して

富山大での第65回日本西洋史学会では諸々嬉しいことがありました。なかでも記念講演のなかで東京外大の立石博高先生から「礫岩国家」に関するご批判を頂けたこと、懇親会の場で先生から「僕らの顔(議論)を念頭において話をしたよ。」と声を掛けて頂いたこと、先生のご講演に触発される形で近世史研究の仲間が「立石先生の議論を軸にして各地域の事例から複合的政治編成を比較する機会を設けよう。」とこの議論に積極的な関心を示して頂けたことです。僕が非力で怠惰なために、この議論に関して僕らが紹介した「礫岩国家」についてきちんと整理された文章を書いてこなかったばかりに、この違和感あふれる言葉だけが独り歩きして、これに対する賛否両論が巻き起こっているわけです。それでも西洋史学界に属するさまざまな地域を研究されているみなさんが、ひとつの議論の場でより実態に即した近世の国家像について喧々諤々対話をしはじめた状況を今回の学会でも再確認できて、「言いだしっぺ」としてはうれしい限りでした。

僕自身、振り返れば1998年にconglomerate stateの議論を知って以来、長い間compositeとconglomerateの使い分けに意識することなく、両者を「複合」と理解し、翻訳してきました。けれどスウェーデンの歴史学界での近世国家の議論に深く接すれば接するほど、「両者をともに「複合」として翻訳することは問題なのではないか。」と感じ、先の複合国家科研では「礫岩」という言葉を提唱するに至った次第です。dominium politicum et regaleとしての議論も、「複合王朝国家」としての議論も、それは近世における複合的国家編成の実像を活写する概念であることは疑いありません。これに対して「礫岩国家」は「複合王朝国家」が構築・解体されるダイナミックな過程を論ずるための研究アプローチに関わる概念だと考えています。

「礫岩国家」論の検討対象は、言うまでもなく「複合王朝国家」です。より具体的には、さまざまな来歴と伝統・慣習・特権をもった地域と、保護者としてそれらを包括的に統治権を認められた君主権力との関係です。バルト海帝国ならば「本国と服属地域」と呼ばれる両者の関係の推移に、「複合王朝国家」の可塑性を確認しようとしています。この関係は、公式には議会や条約などの交渉の場、非公式には反乱などの実力行使による異議申し立てなどに見られた諸身分・地域住民の言動を通じて変化します。それゆえ「礫岩国家」論にたった史料分析は、それら交渉や反乱などの場における言説の分析となります。多くの場合、君主権力に包摂される側の言動は、「これが○○地方の属性だ」と発話者側が想定して語るものを「根拠」としながら展開されます。しかしその「根拠」は不変ではありません。言説レベルで見れば、変幻自在なものです。交渉や反乱などで主張される地域の属性の「根拠」は、実のところ、それぞれの主張が発せられる際の状況に応じて戦略的に選ばれるため、発話のコンテクストに応じてその属性も変化するのです。

京都大の小山哲先生は以前より「「礫岩国家」論はスカンディナヴィアに特有な議論だよね。」と看破されていました。確かにもともとスウェーデンでconglomerate state論が提唱された背景として、それが強烈なアンチ・ナショナリズムの雰囲気から出発した議論だったことを知ってもらう必要があるかも知れません。彼ら/彼女らは原初主義、近代主義双方のナショナリズムの見方を近世史に適用することに徹底して批判的でした。バルト海帝国はスウェーデンを核とはするものの、スウェーデンとは異なる独自の政体をもつ地域を複数包含していましたから、これに対して「スウェーデン」という名前を与えるような考え方は真っ先に否定されました。(この時点で、例えばスカンディナヴィア半島の南端に位置するスコーネの「スウェーデン」化といった、ネイションステイトとしての「スウェーデン」を前提とする古典的な議論は否定されました。)それを語るには「ヴァーサ朝君主国」としか呼べないといった状況さえ生まれています。他方で「ヴァーサ朝君主国」を構成した地域さえも、原初主義的な地域解釈を批判する観点から、それらの地域の名前を先験的に語ることには慎重となっています。

いずれ日の目を見るだろう論文のなかで紹介しようと思っていますが、conglomerate state論の提唱者であるH.グスタフソンは、P.サーリンズのピレネー研究などを参考としながら「スウェーデンによってスコーネがつくられた」論をかつて主張していました。スコーネやピレネーといった「複合王朝国家」を構成した地域の属性は先験的・伝統的に存在したものではなく、君主権力との交渉における自己主張のなかで戦略的に作り出されたものだという議論です。スコーネを例にとれば、スウェーデン王の保護下に編入された際の交渉のなかで、ある権利を主張する際には「スウェーデン王国の安寧」を建前としながら、また別の権利を主張する際には「デンマーク王国に由来する伝統」を建前としながら、戦略的に「二枚舌」を使い分けることで独特なスコーネの言動をつくりあげていきます。スコーネの独特な性格は、スウェーデン編入に刺激される形ではじめてできあがったという議論です。

「複合王朝国家」としての近世国家の特徴を論ずることは、決してアナクロな王朝史へ回帰することではありません。僕たちの世代の近世国家研究もまたかつての社会史研究や社会運動史研究などの知見を踏まえた上で展開されるべきで、そうした先行研究が示してくれた社会の構成要素の能動性に対する眼差しは共有したいところです。「礫岩国家」論とは、「本国と服属地域」の関係をめぐって、統治権力と地方社会との間で行われた交渉を記した史料のなかに、「複合王朝国家」を構成する地域の属性も時と場合によって変化させてしまうような、状況に応じた発話者のプラグマティックな言説を確認する研究アプローチを提唱するものです。これを見ることは、ある君主権力に包摂された地域社会側の能動性を確認することになりますし、その能動性を見ることが「複合王朝国家」のダイナミックな可塑性を生み出すエネルギーを見出すことにつながります。これこそが、僕らの科研プロジェクトが現在「歴史的ヨーロッパにおける複合政体のダイナミズム」を追いかけている所以です。

2013年12月 2日 (月)

「東アジアの西洋史学」ワークショップのこと

先週末は、「金曜19:00ソウル集合」という東北大学の小田中直樹さんからの、まるで飲み会のお誘いのような大変おおらかな召集メールに従って、韓国の西洋史研究者とのワークショップ「東アジアの西洋史学」に出かけました。(小田中さんのブログに先を越されてしまいましたので、こちらを大急ぎで発言します(笑)。)

韓国の研究者の方々とはこれまでも国内で何度かお目にかかり、言葉を交わしたこともあるのですが、韓国に足を踏み入れる機会はこれがはじめてでした。インフォーマルな会合ということもありましたが、韓国の西洋史学研究者の方々とざっくばらんに…しかしかなり突っ込んだ話をすることができ、充実した時間を持ちました。第二次世界大戦後の韓国と日本の双方の史学史の流れを確認しあう作業が主体でしたが、こんな機会は滅多にえられない訳で…正直、あと十年、はやくてもよかったと思うくらいです。西洋史学という学問はどこかで「近代」という概念を意識し、それと対峙しながらつくられてきた学問です。これは韓日双方同じ。そして、往々にしてそうした意識は、韓日ともに英仏独米露のようないわゆる「大国」とどう向き合うかという関心に基づいています。韓国の研究者に、僕は「そうした大国を参照する「近代」の概念化に批判的であって、だからスウェーデンのような「辺境」へと自分の関心は逃げたのだ。」と話ましたが、僕のような態度は、結果的にゲルツェン(あるいは良知力)以来の「向こう岸」の考え方となんらかわりありません。結局、そうした関心から派生する東欧史や北欧史への研究態度は、「大国」への意識の裏返しということです。韓国の西洋史の研究情況はとても「正直」で、英仏独米などを主体に進められており、これに対して日本の西洋史は東欧や北欧に至るまで研究が存在する。この点は韓国の方々に驚かれましたが、それは「近代」に意識的な人にとって当然の反応でしょう。だからこそ、「なぜ日本では「近代」を意識する西洋史という学問のなかで、東欧史や北欧史までもが研究対象とされていったか?」という点について、韓国との違いに意識を払いながら説明できるように僕らは論を用意せねばならない。(冷戦崩壊の頃に西洋史学をはじめた僕たちの世代は、何かにつけ「東か西か」といった意識に強く規定され、東欧や北欧を考えてきました。けれども、例えば江口朴郎以降の関係史的な視点に立った世界史における西欧の相対化作業と地域研究の展開といった背景も、自分たちの学問のルーツとして忘れてはなりません。)この点が、次回の会合までの僕の「宿題」となるでしょう。自己をより客観的に浮き彫りするための他者との対話は、このように大切なものだと韓国の方々とお話の機会をもって実感しました。

閑話休題。ソウルで頂いたお料理は、何れも日本の食文化にはない豪快と野趣の感に溢れ、みんなとワイワイやりながら食べるのにピッタリなものであると思いました。一日目に頂いた닭한마리(タッカンマリ)という鶏を丸々一羽水炊きしたものは、寒い時期には身体を温めるのに最適なのでしょう。僕らが行ったお店は大繁盛していました。柔らく煮込まれた鶏をぶつ切りにして、唐辛子とニンニクベースと思われるペーストに適宜カラシやカンジャン(醤油?)を混ぜたソースにからめて食べます。肉が骨からホロっとほぐれて美味しい。僕らが食べた店では、鶏を大方食べ終わった後、鍋に残った鶏の煮出し汁でうどんを作ってくれました。そして二日目には낙지볶음(ナクチボックム)という手長タコの辛炒めを頂きました。日本の食文化で「もてなし」といえば、(ある程度、親しくなった仲間同士での鍋料理などを別とすれば)お膳やお鉢で料理が小分けされ配膳されるのが主体ですが、韓国で頂いたものは、同じ鍋や鉄板で調理されたものをテーブルを囲む皆が箸でつつきながら共有するものでした。宮廷料理などの伝統はわかりませんので、はたしてこういう形式がインフォーマルな身内同士での食事に限定されるのかはわかりません。しかし文化人類学的には、こうした形式は同族意識を強める社会的機能をもつとよく説明されますね。同じ鍋や鉄板の上にあるものを共にしながら、年代の違い、性別の違い、そして何より国の違いを越えて、ひとつの連帯をえようとするのが、韓国の食文化にみる「もてなし」の真髄でしょうか。僕らが共にしたナクチボックムは、この動画にあるように豪快に生きたままのナクチ(手長タコ)を鉄板上にしかれた唐辛子ベースのヤンニョム(味付け)を絡めた野菜の中に入れ、韓国料理によくみる「混ぜ合わせながら」焼き、頃合いを見て切り分けて食すというものでした。とても辛く、一緒にいらした韓国西洋史学会の前会長のLee Yon-Suk先生(光州大学)は「韓日の連携を深めるには辛さのトレーニングも必要だね。」とお話し下さるほど。でも、先生、大丈夫ですよ!僕は辛い料理が好きなので、「おいしい、おいしい」と騒ぎ立てながら、これに様々なタイプのキムチなどを合わせて食べていました。(キムチというのは、メインディッシュの味付けはシンプルなものが多いので、食す側で個人の好みに応じて味を調えるためのものなのですね。)ひとしきり手長タコを頂いた後は、鉄板上にご飯を投入してビビンバ。日本で韓国のお料理といえば辛さばかりが強調されますが、均質に混ぜ合わせたものを皆で共有する食の形式に僕は韓国料理の核心を見た思いがします。

はじめての韓国出張でもっとも印象的だったのはもちろん韓国の研究者との対話だったのですが、個人的趣味との関係では、Chun Jin-Sung先生(釜山教育大学)に連れられて、今年生誕100周年をむかえた画家の김기창(金基昶)の回顧展を見ることができたことでした。김기창は画号の운보(雲甫)という呼び名のほうが知られているかもしれません。韓国渡航前にはおそらく僕が知る唯一の韓国人画家でした。それは、世界史の教科書や資料集で目にする世宗大王の肖像画が彼の作品だったことを知っていたからです。世界史って、本当に役立つ教科だなぁ。(一頃、そんな彼が親日派ということで批判されているというニュースもありました。日本をどう思っていたのかはわかりませんが、アトリエの展示から見ると確かに鳩居堂の画材などを使っていたようです。)回顧展の中心は、『예수의 생애(イエスの生涯)』と題された連作。これは、新約聖書に描かれた一連のイエスの物語を韓国のコンテクスト(つまり韓国の衣装・建築・風景・風俗)のなかにおいて描き直した作品群でした。彼自身がメソジストだったということよりも、この一連の作品が朝鮮戦争という歴史的コンテクストを背景として描かれたという点がとりわけ印象深い。民族分断の深刻な時代状況のなかで、西方のキリスト教の宗教的コンテンツが東方の韓半島の文化コンテンツとの融合が果たされたという訳です。ハングルを読めない僕が「これは受胎告知でしょう?」とか話して、「お前はハングルを分かるのか?」とか言われたけれど、聖書の物語が普遍化されている以上、ナショナライズされた表象に囚われることなく容易に一連の画題を理解できる訳で、図らずも人間の認識力のグローバル化の実例を、自分自身の中に確認した瞬間でもありました。一緒に見ていた小田中さんとは「この作品はある意味、グローバルヒストリの格好の素材だね」と話していました。

ということで、韓国の皆さんの「もてなし」に心から感謝しながら、今度は日本で近いうちに皆さんと楽しい時間を持ちたいものです。감사합니다!

2012年3月 6日 (火)

「ヨーロッパ境界地域の歴史的経験におけるパトリア/市民権」シンポジウム

科研基盤(A)「ヨーロッパ境界地域の歴史的経験におけるパトリア/市民権」は、東欧史研究会との共催で下記の次第でシンポジウムを開催します。報告は英語で行われ通訳はありませんが、皆様の参加を心から歓迎します。

「ヨーロッパ境界地域の歴史的経験におけるパトリア/市民権」シンポジウム

19世紀における「国民史学」と「国民文学」

(このシンポジウムは、東欧史研究会特別例会としても開催されます。)

日時:2012年3月10日(土)14:00~19:00
場所:東京外国語大学本郷サテライト7階会議室
主催:東欧史研究会&科研基盤(A)「ヨーロッパ境界地域の歴史的経験におけるパトリア/市民権」(代表者:篠原琢(東京外国語大学))

報告1:カタジナ・ブワホフスカ(ワルシャワ大学歴史学研究所)
Dispute over History - Dispute over the Present Day. The Territories of the former Grand Duchy of Lithuania in the Interpretations of Nineteenth-Century Russian and Polish Historians

報告2:ロバート・ピンセント(ロンドン大学スラヴ・東欧学研究所)
'The Heart of Europe.' The Origins and Fate of a Czech Nationalist Cliché

コメント:
青島陽子(愛知大学)
篠原 琢(東京外国語大学)
(報告は英語、通訳なし)

2012年2月15日 (水)

「近世ヨーロッパ周縁世界における複合的国家編成の比較研究」講演会&ワークショップ

科研基盤(B)「近世ヨーロッパ周縁世界における複合的国家編成の比較研究」は、この3月にコペンハーゲン大学サクソ研究所に属されるゴナ・リン教授を招聘して、主にデンマークを事例とした近世における複合的国家編成に関して、2012年3月2日(金)午後には立教大学にて講演会を、3月13日(火)午後には京都大学にて日本人研究者と連携したワークショップを開催します。

リン教授は、近世ヨーロッパに変質・頻発した戦争の社会的影響に着目しながら、北はノルウェーから南はシュレスヴィッヒ・ホルシュタインにまで至るオレンボー君主体制下における国家形成について長らく分析を進められ、近世ヨーロッパの国家形成論に関しては現在の北欧歴史学界を代表する研究者として知られています。(リン教授の経歴については、こちらをご参照ください。英語論文としては Lind, G 2006, ' Being States and Making Diplomacy in Early Modern Europe: The Danish Kingdom and the Dutch Republic c.1568-1632 ', Tijdschrift voor Skandinavistiek , nr. 27:1, 2006, s.3-23; Lind, G 2005, ' Elites of the Danish Composite State,1460-1864: Zones of fracture, mixing, and the struggle for hegemony ', Zones of Fracture in Modern Europe: the Baltic Countries, the Balkans, and Northern Italy, Harrassowitz Verlag, Wiesbaden, s.111-136.などを刊行されております。)

本科研は、近世ヨーロッパでもイベリア半島、ブリテン諸島、バルト海域、ドナウ水系などの周縁世界にて形成された国家について、君主体制下に属した複数地域間の結合論理などに着目しながら、それぞれに独特な複合的国家編成の比較検討を進めています。とりわけ京都大でのリン教授を囲むワークショップでは、リン教授の議論に学びつつも、スカンディナヴィアにおける中世からの視点、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインを含む神聖ローマ帝国からの視点、近世における複合的国家編成の比較例としてブリテンからの視点を交えつつ、バルト海域を舞台とした複合的国家編成の実態に肉薄します。当日の使用言語は英語ですが、皆様の参加を心から歓迎いたします。ぜひご参加ください。

1. 講演(この講演会はバルト・スカンディナヴィア研究会3月例会として開催されます。)

日時:2012年3月2日(金) 15:00-17:00
会場:立教大学5号館2階5201教室(アクセスマップ)
発表者:ゴナ・リン(コペンハーゲン大学教授)
題名:Beyond the Fiscal-Military Road to State formation: Civil Society, Collective Identities and the State in the Old Danish Monarchy, 1500-1850
主催:バルト・スカンディナヴィア研究会、科研基盤(B)「近世ヨーロッパ周縁世界における複合的国家編成の比較研究」(研究代表者:古谷大輔)

2. ワークショップ

日時:2012年3月13日(火)14:00-17:00
場所:京都大学文学部新館2階第2演習室
内容:
報告者 ゴナ・リン(コペンハーゲン大学教授)'Law, War and Nation: The Changing Logic of the Old Danish Union State 1460-1864'
コメンテータ(1)小澤実(立教大学准教授)「スカンディナヴィア中世史の観点から」
コメンテータ(2)皆川卓(山梨大学准教授)「神聖ローマ帝国史の観点から」
コメンテータ(3)後藤はる美(国際基督教大学研究員)「イギリス近世史の観点から」
司会 古谷大輔(大阪大学准教授)
主催:科研基盤(B)「近世ヨーロッパ周縁世界における複合的国家編成の比較研究」(研究代表者:古谷大輔)

2011年5月 6日 (金)

スウェーデン歴史会議2011〜両極端にあるスウェーデンと日本〜

ゴールデンウィークを潰して、ユーテボリ大学で開催されているスウェーデン歴史会議2011に参加しています。僕自身ペーパーはありませんが、立場的にはこの会議中に開催される史学雑誌(Historisk tidskrift)の年次総会に国際編集委員の一人として参加するということもあります。

スウェーデン歴史会議は、史学雑誌の発行母体ともなっているスウェーデン歴史協会が3年に一度開催している学会で、スウェーデン中の歴史学者が一同に会する学会です。北欧諸国全体の歴史学会となると、これまた3〜4年に一度開催される北欧歴史家会議があります。後者は数カ国語が乱れ飛ぶ国際的な雰囲気に溢れ、各国の歴史学者の傾向の違いを比較できるのに対して、前者はほとんどが顔見知りで、スウェーデン語だけで対話が繰り返される親密な雰囲気に溢れています。

今回の学会の総合テーマは「スウェーデンにおける歴史〜ネイションのなかに把握できるもの」。日本と似たように、スウェーデンの歴史学界でもグローバル・ヒストリの構築という問題、ならびに歴史学という学問のグローバル化という問題をめぐって議論は盛んで、今回の総合テーマはそうしたグローバルな歴史学の展開を見据えたときに、あえてその前提として従来の研究が明らかにしてきたネイションのなかに、あるいはそうしたネイションを明らかにしてきた研究手法のなかに垣間見られるグローバル的要素を再考しようというものです。

「グローバル・ヒストリとは何か」とか、「歴史学のグローバル化はいかに実現されるか」とかいった議論は、確かに最近の日本の歴史学界でも、日本学術会議の提言や阪大の文学研究科の活動に見られるのですが、あえてネイションないしネイション研究を再考することからグローバル・ヒストリの議論を出発させる点が大きく異なり、これはいかにも「スウェーデン的」発想だと思います。

スウェーデンと日本の歴史学界と比較した場合、その問題関心のもたれ方が両者の歴史に対する意識の差から大きく異なると思います。日本の場合、歴史に対する意識は、例えば1868年の明治維新や1945年の太平洋戦争敗北…あるいは2011年の東日本大震災もそうなるでしょうか…といったターニングポイントが歴史を断絶し、転換したというイメージに強く影響されているため、歴史学における問題関心の持たれ方も、多かれ少なかれ「断絶か、連続か」を問うところから出発しています。

これに対して、スウェーデンにおける歴史への意識は、その連続性あるいは継続性に強く依拠しています。北欧諸国のなかでも、デンマークなら1864年のスレースヴィ戦争敗北や1945年のナチス・ドイツからの解放、ノルウェーなら1814年の独立や1905年のスウェーデンとの連合王国からの自立、フィンランドなら1917年の独立…といったように、大抵はそれらの国々における歴史への意識は、日本と似たように近代的ネイションの歴史的形成過程のなかで断絶ないしは転換を経験していますから、歴史学における問題関心の持たれ方も「連続か、断絶か」を問う場合が多い。

しかしスウェーデンだけは決定的に異なり、1809年のクーデタ以降、ここ2世紀にわたる近代的ネイションの形成過程において、歴史的に断絶や転換を意識させるモメントを経験していないのです。それゆえ、歴史学における問題関心の持たれ方も、そうしたネイションとしての連続性・継続性に立脚しつつ紡ぎ出される傾向にあるわけです。今回のスウェーデン歴史会議における総合テーマも、確かに世界的規模のグローバル化という今日的現象とそれに裏付けられたポストコロニアリズムのような思潮の拡散による伝統的ディシプリンの刷新の必要といった背景はありますが、そうしたときにグローバルな人的・物的ネットワークの展開などの議論にむかわず、あえてネイションの枠組みからグローバル性を問い直そうとするのは、いかにもスウェーデン的歴史意識に裏付けらたものと言えるでしょう。

連続性・継続性に裏付けられた歴史意識と対極に位置する意識をもった日本で生まれ育った僕からスウェーデン歴史会議における議論を見ると、ネイションのなかにグローバル性を見いだすとは言っても、結局、国語化されたスウェーデン語が紡ぎ出す議論でしかなく、そうした議論の枠組みそのものが近代的ネイションの思考枠にとらわれがちである…換言すれば、本来、多言語が縦横無尽に飛び交う時空間のなかで紡ぎ出されていたバルト海あるいはスカンディナヴィアの知の構造の実態を忘却しがちな傾向にある…といった印象を持ちます。

だからこそなのでしょう。今回の会議では、史学雑誌の編集メンバと話をする機会がありますが、彼らもスウェーデン歴史学のもつ限界…つまり強固な連続性の意識を否定できないがゆえに内在する思考枠の限界を意識していて、皆、口を揃えて僕のような存在との共同作業が今のスウェーデンの歴史学には必要なのだと言ってきます。一見、親密に見えるこの会議の裏には実はとても真剣な限界克服への意識が秘められているのです。そうした経験を踏まえて、僕は益々スウェーデンと日本の歴史学、あるいはそれを裏付ける歴史意識の極端な差異…対極性を意識するようになっています。