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2015年5月

2015年5月31日 (日)

スウェーデン語Ⅱ(a)

阪大外国語学部で水曜2限のスウェーデン語講読の授業に参加されているみなさん。次回のテキストをアップロードすることを失念していて、大変申し訳ありませんでした。次回以降、4回分の箇所です。近世のスウェーデン語の雰囲気も味わってみましょう。よろしくお願いします。

スウェーデン語Ⅱ(a)のテキストをダウンロード

2015年5月25日 (月)

ヨーロッパ文化論/Area Studies (C)

関西外国語大学で月曜3限・4限にヨーロッパ文化論/Area Studies (C)を受講しているみなさん。来週6
月1日分の講義ファイルをアップロードします。なお今日25日の授業は、先日アップした小括の内容に従って3時間目に小テストを行います。よろしく。

来週(6月1日)の講義ファイルをダウンロード

2015年5月22日 (金)

関西外大のみなさんへ

ヨーロッパ文化論/Area Studies Cの来週5月25日3時間目は、「地域からみるヨーロッパ」と題してお話してきたこの講義の第二部について小括した後で、小テストをします。その小括部分のPDFファイルをつくりましたので、こちらにアップします。予習・復習に活用してください。

第二部の小括をダウンロード

2015年5月21日 (木)

「礫岩国家」論へ立石博高先生から頂いたコメントへの回答

東京外国語大学の立石博高先生から、大変貴重なコメントを頂きました。「礫岩国家」論をどのようにわかりやすく知って頂くかをあらためて再考するうえでよい機会ですので、あらためてこちらに僕の所感をまとめます。

「あれからGustaffson氏の1998年論文(The Conglomerate Sate)と2006年論文(A State that failed)を読み直しました。後者の論文ではほとんどこのConglomerateを使っていませんね。いったい氏は、Conglomerateをどのようなイメージで(それがどのような日本語に相当するかたちで)使っているのか、はっきりとつかめませんでした。どうも「地質学」イメージではなくて、漠然とした「コングロマリット」、つまり集積・集塊といった印象を受けますが・・・。その後に、氏はなんらかの地質学的な意味合いでの定義をしているのでしょうか。氏がいう、それぞれの地域政治体に対して王権が異なった対応・統治戦略をとった、という指摘は大切ですし、そのことは今後充分に検討しなければなりません。ただ、この王権の支配領域全体を問題にする場合には、「複合王朝国家(複合王政)」と規定し、一円的でないかたちでの領域編成原理(二宮氏の言う「領域的結合」の複雑さ)を問題にしたほうが、一般には分かりやすいというだけです。その意味では、5月18日の投稿で貴方が書かれている、貴方の構想する「礫岩国家論」の姿勢には、まったく異存ありません。」

「礫岩国家」なる言葉を学界に初めて提起したのは2013年の京都大における日本西洋史学会でのことでした。このときのシンポジウムは、2010年より立石先生も研究分担者として参画して頂いた「近世ヨーロッパ周縁世界における複合的国家編成の比較研究」の共同研究の成果を披露する場でした。2010年にはじめた当初、composite monarchyやconglomerate stateという概念を僕たちは共有していましたが、最初から後者を「礫岩国家」などと表現していた訳ではありません。また後者の提唱者だったグスタフソンも、僕との会話のなかで「conglomerateには礫岩の意味があることは認識している」とは語っていましたが、もちろんより「一般的に流布している複合企業体をいう意味もある」とも語っていました。彼の研究は逐一フォローしていますが、地質学のアナロジーとして「礫岩」を明言しているものはありません。それは、むしろ日本での僕らの共同研究が紡ぎ出した言葉です。

そもそもグスタフソン自身はconglomerate stateに関する定義も1998年の論文で試みたくらい(…その説明もcomposite stateやcomposite monarchyとの明確な使い分けには触れていませんでした…)、あとの業績では一般的に流布しているような集塊や集積といったイメージでしか使っていないかと思います。これは立石先生のご指摘の通りです。このイメージでのconglomerateは少なくとも語感のニュアンスを共有している北欧諸国の学界ではいまでは定着しています。2006年の"A State that failed"は、カルマル連合の崩壊過程とオレンボー朝君主国・ヴァーサ朝君主国の構築過程を論じたものですが、これは2000年に公刊された"Gamla riken, nya stater(古き王国、新しき国家)"というモノグラフのエッセンスを英語で整理しなおした論文です。

この論文ではconglomerate stateという概念は明確に提示されれていません。と申しますのも、この研究は、デンマークやスウェーデン、ノルウェーのような先験的な国家概念・地域概念を前提として史料を分析するのではなく、「それぞれの地域政治体に対して王権が異なった対応・統治戦略をとった」こと、そして逆に「王権に対してそれぞれの地域社会も異なった対応と戦略をとった」こと、「それぞれの戦略の応酬のなかで王権側も地域社会側も自分自身に関する理解をあらたにしていった」ことを明らかにするために、従来から知られた史料をあらためて読み直すことに努めた実証研究だったからです。このような史料分析の方法をプラグマティックな言説分析だと彼と彼の仲間たちは呼んでいます。彼がこの「古き王国、新しき国家」で実践した方法は、いささか曖昧に示されたconglomerate stateの方法概念(そのなかでも「地域政治体に対して王権が異なった対応・統治戦略をとった」ことを明らかにするための手法として流布するに至っています。

さて日本側の「礫岩国家」論はどうだったのかといえば、確かにグスタフソンの議論に刺激された点は大きいのですが、そのままだた単なる現地研究者による修正主義的な近世史解釈を紹介するだけとなってしまうわけで、これとは別の我が国の近世国家研究で長らく残されてしまった課題への対応という点から、少しづつ「礫岩」という言葉が紡ぎ出されていったと思っています。一言で言えば、立石先生も先日の講演会で二宮先生の(手書きの!)ハンドアウトを紹介されていましたが、東北大での日本西洋史学会での議論との関係です。常によき研究仲間である中澤達哉さんや小山哲さんとは、「僕たちの世代は『近代国家形成の諸問題』の所収された論考から受けた衝撃から出発している」といつも話していました。

二宮先生の「統治構造」論に見られた日常的な社会的結合関係が取り結ぶ空間的・地縁的社団と機能的・職能的社団の双方への視点を結びつけた絶対王制の統治構造理解は実に美しく、魅力を失いません。これに対しては、柴田三千雄先生や近藤和彦先生なとが、先験的な共同体感覚を越えて、「出身の違いや利害・信仰の対立と併存を前提に、どういった公共性が形成されてくるのか?」といった視点から意見されていたかと思います。(二宮先生は「統治構造の社団的編成」と慎重に語られていましたが、柴田先生は『近代世界と民衆運動』で、近代的な領域編成を前提とするような社団国家・名望家国家・国民国家を用いられました。柴田先生の問題設定は別のところにあり、近代世界システム論などを見据えながらヨーロッパ広域の問題を論じるところでそれぞれの国家はその単位でしたから単純に批判はできませんけれども、多くの人たちは二宮先生の「社団的編成」と柴田先生の「社団国家」を混同して使うようになってしまいました。混同するのはいけない。)

二宮先生の議論は今でも説得的であり、「複合王朝国家」においても地縁的社団が統治権力との交渉経路をもった場合、「本国と服属地域」の関係を見る上で採用されるべき理解です。しかし実際には、立石先生も書かれているように領域的結合の実際は一円的に整序されたものではなく、誠に複雑怪奇な合従連衡の様相を呈します。こうした一円的な領域的結合を前提としては理解することが難しい、整序されない領域的結合をイメージさせる言葉として僕たちは「礫岩」という言葉を採用したのでした。ここで観察できる地域社会が、その時々の状況と交渉に応じて、時にはあちらの普遍君主へ、時にはこちらの普遍君主へ…といった具合に変動するのか。こうした問題を考える上で忘れてはならないもう一つの議論は、二宮先生の論考と同じく収録されていた成瀬治先生の「近代国家形成の諸問題」だと思っています。

両者は両輪のごとく相互に補完しあって、いまだに僕たちに発想と関心を捉えています。成瀬先生は、「主権概念の確立者として自他ともに認めるジャン=ボダンそのひとが、すべての身分的な社団および共同体を排除すること、それは国家を破滅させることであり、国家を野蛮なティラニーにしてしまうことだと述べていた」と、新たな主権概念と伝統的な社団・共同体理念の二重性を指摘した上で、「今日のヨーロッパ絶対主義研究は、ようやくボダンの真意を「近代国家」の形成過程についての構造史的な再検討のなかで、あらためて認識しつつあるといえるのではあるまいか。」と述べています。これに対して二宮先生は、成瀬先生のボダン論への書評のなかで、主権と伝統的な市民社会概念の二重性に賛同しつつも、「この二つの側面が、何ら矛盾するものではなく、整合的に組み入れられているのだろうか?自権者たる家長の共同体としてのciteやcollegeと、臣民一般に対しかれらの同意なしに法律を与える最高権力としての主権との間では、少なくともヴェクトルが逆になることがありうるのではないか?」と議論を展開されました。しかし「構造史」的な観点でこの問題の再検討は課題として残されたままのように思います。

一言で言って、僕たちは、領域的結合の複雑さ(一円的とは言えない領域編成)を生み出す決定的なモメントとして、普遍君主の理念と伝統的な秩序理念(特権も含む)との拮抗関係に着目する必要があり、そうすることが、「領域的結合の複雑さを構造史的に再検討する」という課題につながると思っています。そうした問題から出発した礫岩国家研究の対象は、立石先生が記してくれているように「一円的でないかたちでの領域編成原理をもつ「複合王朝国家」です。この複雑怪奇な領域的結合にこそ、『近代国家形成の諸問題』が残してくれた普遍君主の理念と伝統的な秩序理念の二重性がもっとも明らかに示されていると思うからです。先のグスタフソンとの関係で言えば、こうした日本の学界で1970年代までに育まれた課題に肉薄しようとするとき、先験的な国家概念や領域概念を前提としないプラグマティックな言説分析が魅力的に映る次第です。そういう意味で、立石先生から頂いた「5月18日の投稿で貴方が書かれている、貴方の構想する「礫岩国家論」の姿勢には、まったく異存ありません」との言葉に勇気づけられました。ありがとうございます。

2015年5月20日 (水)

北欧史概説a

阪大外国語学部で水曜4限に開講される北欧史概説aを受講するみなさん。こちらに本来ならば今日5月20日と来週の5月27日に使う講義ファイルをアップロードします。ただし、今日の授業は先週からの積み残しとなるので、このファイル自体は使わないかも知れません。このファイルは、ヨーロッパとスカンディナヴィアの出会いということでいわゆる中世初期の話です。よろしく。

5月20日・27日の講義ファイルをダウンロード

2015年5月19日 (火)

「礫岩国家」論へのコメントの回答

信州大学の伊藤盡先生から、ひろく皆さんに知って頂けたらありがたい件でご質問を頂きましたので、別項を設けて回答いたします。
「中世文献学が16〜18世紀のnationの概念の構築に寄与したことは、イングランドをはじめとする新教君主国では当然と思えますが、考えてみれば、イングランドにおけるリーランドやコトン卿、デンマーク・アイスランドにおけるアールニ・マグヌースソンにあたる人物が、スウェーデンでは誰にあたるのか、これまで寡聞にして知りません。スウェーデンでは中世前期まで遡るとGötland征服あたりから問題にしなければならないといったことが背景にあるのかも知れませんし、私の無知蒙昧のせいかも知れませんが、近世のヴァーサ朝君主国は中世とは一線を画し、過去はどうあれ新しい国家(王朝)を起ち上げたというイメージを持ってしまっています。その「新しさ」こそが「礫岩国家」と理解してもよいでしょうか?」
「礫岩国家」の研究アプローチに従って近世スカンディナヴィアの「複合君主国家」を観察する際、地域社会の保護者になった君主権力側も、それに服属した地域社会側も、「古きこと」をそれぞれの観点から準用しながら自らの立場を主張したことは、両者の紐帯がどのように形成されたかを示す上で重要な論点のひとつです。ただし「古きこと」の準用ばかりを僕たちが議論するとそれは原初主義的な地域理解に繋がってしまう危険性がありますので、当時の「古きこと」の論理も、実のところ新しく構築されていった「複合君主国家」の実現するレスプブリカとの関係のなかで、「新しさ」を身につけていった点に注意を払う必要があります。(グスタフソンの「スコーネはスウェーデンによってつくられた」論を参考にすれば。)
ヴァーサ朝君主国が、広く見れば普遍的なヨーロッパ世界の軍事的保護者としての論理(三十年戦争が良い例)、狭く見ても普遍的なバルト海世界の保護者としての論理として採用したものとして、「スウェーデン民族の起源はゴート族にあり、ゴート族がローマ帝国以後のヨーロッパ文明の構築に与えた意味を考えれば、ヨーロッパ文明の起源はスウェーデンにある」といったヨーロッパ文明ゴート起源説が知られています。これはやがて19世紀前半の国際問題との関係で矮小化され、「なぜスウェーデンはロシアに敗北したのか?それは民族の祖であるゴート族の気風が失われたからである。」といった論調から、単に「スウェーデンの民族的起源はユータランドを故地とするゴート族にある。」といった考えになってしまいました。16〜17世紀におけるヨーロッパ文明ゴート起源説と19世紀におけるゴート主義には、普遍的にヨーロッパ世界でのレスプブリカ構築を求めた複合君主国家の理念と、それが失われスウェーデンに限定された範囲でのレスプブリカ構築を求めた国民国家の理念の違いがあることをまず紹介しておきます。
「礫岩国家」論で用いられる述語として「普遍君主」という言葉があります。独自の政体をもった個別の地域社会を包摂する普遍的な論理を用意した君主という意味です。(同時代の史料用語で言えば、保護者として認められた際の具体的な統治権を、ヴァーサ朝君主国でもインペリウムと表し、後世のスウェーデンの歴史家はスウェーデン語でそれをヴェルデと表しました。スウェーデン語で言う「ウステルシューヴェルデット」が「バルト海世界でヴァーサ朝君主のインペリウムが認められた広域圏」となり、これを便宜的に日本語では「バルト海帝国」と呼びます。)ヴァーサ朝君主国以降の「普遍君主」は、ローマとは別の普遍ヨーロッパの論理を切り拓いたゴートに着目してゴートにつながる「古きこと」が主張されましたが、実際問題として、この主張はバルト海東岸部に対してヴァーサ朝君主を「普遍君主」として認めさせることが問題となっていた16世紀以降に「新しく」造られた論理です。ヨハンネス・マグヌスがスウェーデン王の系譜の前にゴート王の系譜を付け加えることで、ヴァーサ朝の二代目の君主となったエーリックが「エーリック14世」になってしまった話はよく知られています。
こうした議論についてイングランドのリーランドやコトン、デンマークにおけるアルニ・マグヌースソンらに比肩するような事績を残した人物としては、ヨーロッパ文明ゴート起源説の構築に携わった人物たち(ニルス・ラグヴァルズソン、エリクス・オーライ、ヨハンネスとオラウスのマグヌス兄弟、ヨハンネス・ブレウス、オーロフ・リュードベックあたり)が紹介されます。しかしこの主張がヴァーサ朝君主国の公定論理として採用され、「古きこと」を証明する目的で文献・遺物を収集する活動を君主国が支援したという意味では、17世紀にウップサーラに創設された集古顧問会議の活動が重要であり、一人のイデオローグの事績に注目するというよりは、そこに集った博士者たち(ポリュヒストリアン)の集団的活動に注目すべきだと思っています。この件について、僕は清水育男先生の退職記念論文集に献呈した『王国の叙法』のなかでは、「ウップサーラ・コネクション」として論じました。)
問題は、このゴートにつながる論理がスウェーデンに古来より存在した論理ではなく、15世紀前半にバーゼル公会議に出席して普遍的なローマ・カトリックのヨーロッパ論と接したラグヴァルズソンの主張以降、創られた議論だったという点です。しかし、その素材となる議論がスウェーデンになかった訳ではありません。これに関しては、古い北欧語で記された文献に造詣の深い伊藤先生からのご指摘にもあるように、「スウェーデンでは中世前期まで遡るとGötland征服あたりから問題にしなければなりません」。ユータランドはスカンディナヴィア半島南部にあって、紀元後には東方ゲルマンの諸部族として紹介されていくゴート族などが、そこへ南下する以前の紀元前に居住していた土地ではないかと推定されている場所です。ユータランドに残った部族のひとつとしてユータ族があります。
一言で言えば、スウェーデンの王国としての構築過程は、ウップサーラを中心とした祭祀共同体の司祭として宗教的権威をもったスヴェーア族の王権が、同じ信仰を共有した周辺の部族社会を包摂する過程だったと推測されています。しかしスヴェーアランドへのユータランドの統合に関してだけは、デンマーク、ノルウェー、キリスト教の布教で主導権を握ろうとする様々な教会勢力といった外部ファクタによって、紆余曲折の歴史が長く続きます。最終的にユータランドの統合を完全に完成させたのは、フィンランド十字軍の実績とそのために創られた封建的軍事制度によって、北方バルト海世界のキリスト教信仰への軍事的保護者として認められたビャルボー朝君主の登場する13世紀後半と言えるでしょう。しかし実のところビャルボー家は、スヴェーア族の系譜ではなくユータ族の系譜に連なります。つまり中世のスウェーデン王国はスヴェーア族の系譜につながる王によって統合されたのではなく、ユータ族の系譜につながる王によって統合されたということになります。
13〜14世紀にかけてのビャルボー家の事績は、例えば韻文形式をもった韻文年代記のようなかたちで15世紀頃にまとめられていきましたが、そこでは「スウェーデン王国の系譜がユータランドにつながる」ことが積極的に示されます。これらの年代記は、ほぼ同時代から17世紀にかけてゴート主義を創造したオーライやマグヌスらが王国の系譜を記すにあたって重要な根拠「史料」として活用されました。これが「ユータ(göter)主義からゴート(goter)主義へ」の「古きこと」をめぐる主張の転換です。単に「ウムラウトが抜けたから」だとか、「ユータとゴートが同じ部族と考えられていた」とか言った話ではありません。かくの如く、それぞれの時代の君主権力側によって参照された「古きこと」の論理は、同時代のコンテクストによって「新しく」創造されていく過程が見られました。(このあたりの話は、現在脱稿間際の『バルト海帝国』という小著にきちんと書いています。)

2015年5月18日 (月)

ヨーロッパ文化論/Area Studies (C)

関西外国語大学で月曜3限・4限にヨーロッパ文化論/Area Studies (C)を受講しているみなさん。来週5月25日分の講義ファイルをアップロードします。なお来週25日の3時間目には2回目の小テストを実施しますが、ここまでの講義に関する小括は後日アップロードします。よろしく。

5月25日の講義ファイル(バルト海域を考える)をダウンロード

「礫岩国家」論ふたたび〜第65回日本西洋史学会に参加して

富山大での第65回日本西洋史学会では諸々嬉しいことがありました。なかでも記念講演のなかで東京外大の立石博高先生から「礫岩国家」に関するご批判を頂けたこと、懇親会の場で先生から「僕らの顔(議論)を念頭において話をしたよ。」と声を掛けて頂いたこと、先生のご講演に触発される形で近世史研究の仲間が「立石先生の議論を軸にして各地域の事例から複合的政治編成を比較する機会を設けよう。」とこの議論に積極的な関心を示して頂けたことです。僕が非力で怠惰なために、この議論に関して僕らが紹介した「礫岩国家」についてきちんと整理された文章を書いてこなかったばかりに、この違和感あふれる言葉だけが独り歩きして、これに対する賛否両論が巻き起こっているわけです。それでも西洋史学界に属するさまざまな地域を研究されているみなさんが、ひとつの議論の場でより実態に即した近世の国家像について喧々諤々対話をしはじめた状況を今回の学会でも再確認できて、「言いだしっぺ」としてはうれしい限りでした。

僕自身、振り返れば1998年にconglomerate stateの議論を知って以来、長い間compositeとconglomerateの使い分けに意識することなく、両者を「複合」と理解し、翻訳してきました。けれどスウェーデンの歴史学界での近世国家の議論に深く接すれば接するほど、「両者をともに「複合」として翻訳することは問題なのではないか。」と感じ、先の複合国家科研では「礫岩」という言葉を提唱するに至った次第です。dominium politicum et regaleとしての議論も、「複合王朝国家」としての議論も、それは近世における複合的国家編成の実像を活写する概念であることは疑いありません。これに対して「礫岩国家」は「複合王朝国家」が構築・解体されるダイナミックな過程を論ずるための研究アプローチに関わる概念だと考えています。

「礫岩国家」論の検討対象は、言うまでもなく「複合王朝国家」です。より具体的には、さまざまな来歴と伝統・慣習・特権をもった地域と、保護者としてそれらを包括的に統治権を認められた君主権力との関係です。バルト海帝国ならば「本国と服属地域」と呼ばれる両者の関係の推移に、「複合王朝国家」の可塑性を確認しようとしています。この関係は、公式には議会や条約などの交渉の場、非公式には反乱などの実力行使による異議申し立てなどに見られた諸身分・地域住民の言動を通じて変化します。それゆえ「礫岩国家」論にたった史料分析は、それら交渉や反乱などの場における言説の分析となります。多くの場合、君主権力に包摂される側の言動は、「これが○○地方の属性だ」と発話者側が想定して語るものを「根拠」としながら展開されます。しかしその「根拠」は不変ではありません。言説レベルで見れば、変幻自在なものです。交渉や反乱などで主張される地域の属性の「根拠」は、実のところ、それぞれの主張が発せられる際の状況に応じて戦略的に選ばれるため、発話のコンテクストに応じてその属性も変化するのです。

京都大の小山哲先生は以前より「「礫岩国家」論はスカンディナヴィアに特有な議論だよね。」と看破されていました。確かにもともとスウェーデンでconglomerate state論が提唱された背景として、それが強烈なアンチ・ナショナリズムの雰囲気から出発した議論だったことを知ってもらう必要があるかも知れません。彼ら/彼女らは原初主義、近代主義双方のナショナリズムの見方を近世史に適用することに徹底して批判的でした。バルト海帝国はスウェーデンを核とはするものの、スウェーデンとは異なる独自の政体をもつ地域を複数包含していましたから、これに対して「スウェーデン」という名前を与えるような考え方は真っ先に否定されました。(この時点で、例えばスカンディナヴィア半島の南端に位置するスコーネの「スウェーデン」化といった、ネイションステイトとしての「スウェーデン」を前提とする古典的な議論は否定されました。)それを語るには「ヴァーサ朝君主国」としか呼べないといった状況さえ生まれています。他方で「ヴァーサ朝君主国」を構成した地域さえも、原初主義的な地域解釈を批判する観点から、それらの地域の名前を先験的に語ることには慎重となっています。

いずれ日の目を見るだろう論文のなかで紹介しようと思っていますが、conglomerate state論の提唱者であるH.グスタフソンは、P.サーリンズのピレネー研究などを参考としながら「スウェーデンによってスコーネがつくられた」論をかつて主張していました。スコーネやピレネーといった「複合王朝国家」を構成した地域の属性は先験的・伝統的に存在したものではなく、君主権力との交渉における自己主張のなかで戦略的に作り出されたものだという議論です。スコーネを例にとれば、スウェーデン王の保護下に編入された際の交渉のなかで、ある権利を主張する際には「スウェーデン王国の安寧」を建前としながら、また別の権利を主張する際には「デンマーク王国に由来する伝統」を建前としながら、戦略的に「二枚舌」を使い分けることで独特なスコーネの言動をつくりあげていきます。スコーネの独特な性格は、スウェーデン編入に刺激される形ではじめてできあがったという議論です。

「複合王朝国家」としての近世国家の特徴を論ずることは、決してアナクロな王朝史へ回帰することではありません。僕たちの世代の近世国家研究もまたかつての社会史研究や社会運動史研究などの知見を踏まえた上で展開されるべきで、そうした先行研究が示してくれた社会の構成要素の能動性に対する眼差しは共有したいところです。「礫岩国家」論とは、「本国と服属地域」の関係をめぐって、統治権力と地方社会との間で行われた交渉を記した史料のなかに、「複合王朝国家」を構成する地域の属性も時と場合によって変化させてしまうような、状況に応じた発話者のプラグマティックな言説を確認する研究アプローチを提唱するものです。これを見ることは、ある君主権力に包摂された地域社会側の能動性を確認することになりますし、その能動性を見ることが「複合王朝国家」のダイナミックな可塑性を生み出すエネルギーを見出すことにつながります。これこそが、僕らの科研プロジェクトが現在「歴史的ヨーロッパにおける複合政体のダイナミズム」を追いかけている所以です。

2015年5月11日 (月)

ヨーロッパ文化論/Area Studies (C)

関西外国語大学で月曜3限・4限にヨーロッパ文化論/Area Studies (C)を受講しているみなさん。来週5月18日分の講義ファイルをアップロードします。よろしく。(なお再来週5月25日には2回目の小テストを実施します。)

5月18日(ドナウ水系の歴史・ライン水系の歴史)の講義ファイルをダウンロード

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