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2014年2月 7日 (金)

『リネーの帝国』への道(8)〜「スウェーデン啓蒙」という妄想

遅ればせながら、Jonathan Israelの”Democratic Enlightenment”のペーパーバック版が届き、パラパラと眺めている。でも、リネー学派を育んだウップサーラ・コネクションの話はほとんどでてこない。(1000ページを超えるボリュームのなかでほんの数カ所触れられる程度。)最近、なんとなくスコットランド啓蒙との比較で「スウェーデン啓蒙というべき括りでまとめたっていいじゃない?」という妄想を僕はもっているんだ。両者に共通する雰囲気は、18世紀初頭の政治変動に対する現実的対応を「自然」に対する観点(理念)の転換を基礎に据えつつ構想されているところ。例えば、自然神学は18世紀啓蒙における様々な社会論のベースに置かれる世界認識を用意していると言ってよく、これはスコットランドもスウェーデンも変わらない。いわゆる効用主義的観点に基づいた経済論は後の自由主義的経済を後押しするものだが、これらが議論される雰囲気もよく似ている。

しかしスコットランドで言えば「悪徳さえ公共の益につながる」といったように個人の徳と公共の益を二者択一的に捉えることを回避して、道徳的価値なるものも所詮社会の構築物に過ぎないと断罪した道徳哲学は、「生得的な道徳に訴える快楽もまた美徳」とし、やがては「最大多数の最大幸福」といった発想を生み出す。スウェーデンの場合には、こうはいかない。ゴート主義以来の構築主義的な社会観に基づきつつ、「ありうべきキリスト者」としての道徳が「ネイションの当為(sollen)」として説かれる。効用主義的な観点に基づく経済論も、結局のところは「祖国への愛」の一例として集団的発想に回収されていく。「当為」の対象として示された「祖国」という集合理念は、やがて博物学や歴史学などによる「祖国」の可視化により、文化的共通性を「発見」することで「フォルク」という集合理念に結実することになろう。

もし「スウェーデン啓蒙」なるレッテルを貼ることが可能ならば、おそらくそれは、王国議会における政党政治の時期にあって、後年のグスタヴ啓蒙専制の実現を用意することになる理論武装の諸現象ということになるだろう。グスタヴ3世の統治モットーが「Fädernesland(祖国)」というスウェーデン語であることが象徴的なのだけれども、まさにこの「祖国」をめぐる諸言説が「スウェーデン啓蒙」のひとつの特徴だ。大北方戦争敗北以降の政治的現実のなかで効用主義的な観点にたった議論は、「スウェーデン啓蒙」を代表するリネー学派の特徴でもある。

ここでリネーの「使徒」の一人として知られるPeter Forsskål(フォッシュスコール)の例を紹介してみようか。彼は18世紀半ばにあって"Den Nationnale Winsten(国民の利益)"を執筆したAnders Chydenius(シュデーニウス)と並んで自由主義的改革を主張した人物としても知られる。(後者はフィンランド出身者なので現在はフィンランドの偉人として扱われる傾向があるので、近年のスウェーデンでは"Tankar om borgerliga friheten(市民の自由についての考察)" (1759)を執筆した前者をもってスウェーデンにおける古典的な自由主義の嚆矢とする風潮がある。)王国議会で政党政治が行われていた時期とはいえ検閲制度が残る時代に生きたフォッシュスコールは言論の自由に関する強烈な提唱者で、過激な彼のパンフレットの数々がウップサーラ大学に出回ることに師匠リネーは大分苦労したらしい。興味深いのは、彼がゲッティンゲン大学(ゲオルク・アウグスト大学)へ留学していた経歴だ。当時のゲッティンゲンはハノーファ選帝侯領に位置していたから、スコットランド合同以降のブリテンの雰囲気にも触れていただろう。そして何より啓蒙期のドイツの文化人との交流。とりわけカントとの交流と彼に与えた影響はよく知られていて、カントの思想的転換の一例として有名なヴォルフの形而上学への批判は、このフォッシュスコールから刺激されたものとも言われている。

効用主義的な言論が単なる政策のための議論ではなく、人間の置かれた世界を把握する方法との関係で構想されていることは、18世紀啓蒙を覆うひとつの特徴だ。そしてそこで見出された方法は、スコットランド啓蒙における道徳哲学や経済学が後世の世界観把握の方法に引き継がれていくように、「スウェーデン啓蒙」の場合もまた似ている。上で紹介したフォッシュコールの後日談を記せば、彼は1760年にデンマーク王フレゼリク5世が支援したアラビア半島探検事業のリーダーとして(リネーから推薦をうけ)スウェーデンを出立、1763年にイエメンで死去し、終ぞ「祖国」に帰ることはなかった。今日的な語彙で言えば、哲学者でもあり経済学者でもあった彼は、最後は博物学者として死んだ訳だが、そもそもこうした分類が「啓蒙」期の人たちの幅の広さを語るのに限界がある。

興味深いのは、この探検隊の唯一の生き残りとしてコペンハーゲンに帰着した人物がカーステン・ニーブールであり、彼は北欧における東洋学の父となった。(デンマーク出身ながらスウェーデンの王立科学アカデミーの会員となったからあえて「北欧」とする。)そして地中海世界へと向けられた父の事績を受け継いだ彼の息子こそが、厳密な文献批判の方法論をもって近代歴史学の祖とされるバルトホルト・ニーブールである。古代の地中海世界を対象とした彼の事績には後々のランケらによる歴史主義的な傾向は見られず、むしろそうした歴史主義的観点から「フォルク」の歴史的運命を叙述するような傾向は、フィヒテやヘーゲルなどに刺激された同時代の歴史哲学の雰囲気に影響されつつ、スウェーデンやデンマークなどで見出されていくだろう。言うまでもなく、僕ら日本の歴史学(東大って言ったほうが良いのかな?)はランケの直弟子だったリースの伝えたディシプリンを起源として、日々「世界の記述」に努めているわけだけれども、こんなところでも自らのルーツのなかに決してスコットランド啓蒙だけでない「啓蒙」の縁と出会う機会があることを銘記しておいても良いかも知れないね。

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