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2012年4月29日 (日)

古賀謹一郎の伝記を斜め読み〜リハビリ的ブログ発言(3)

僕は自分のスウェーデン史研究が日本人たる自分史とも接点をもつべきだと常々思っている。例えば日本人でスウェーデンを勉強しているならば、ケンペル・テューンバリ・シーボルト…などのラインからはじまった江戸期における洋学摂取の過程に関心を持たざるを得ないだろう。自分との関係では世話になっている東大・阪大とのつながりにおいてもそうである。

ようやく入ったGW週末に、我が国初の洋学研究教育機関である蕃書調所(…東京大学の源流の一つである…)の頭取だった古賀謹一郎の伝記を一気読みしてみた。(彼のもとに二人いた蕃書調所教授のうちの一人が箕作阮甫で、阮甫と緒方洪庵の両名に弟子入りして蕃書調所教授手伝になったのが箕作秋坪。(教授手伝いほかにも西周や津田真道、加藤弘之、大村益次郎などここには諸藩の蒼々たる俊英が集っていて、幕末の幕藩の枠組みを超えた改革のひとつといえる。)阮甫の娘と秋坪の間に生まれたのが箕作元八で、東京帝国大学教授である彼が『西洋史新話』で書いたカール12世伝が「北方の流星王」で、伝記ではあるがおそらくそれが日本人による本格的な北欧史紹介の原点だろう。今はすごい…『西洋史新話』がPDFで読めてしまうのだから。)

古賀の伝記を斜め読みしていて、一番印象的だったのは大坂洋学校の構想に関するくだり。蘭学の私塾だった洪庵の適塾を洋学一般の学校にまで拡張し、他方で漢学主体の市井の懐徳堂と併せて大坂に洋学校を築き、洪庵を頭取とする構想を古賀はもっていたという。既存の環境を集約させることで一気に公的研究機関を整備しようとすれば、市井に自由に開かれた学知の雰囲気が溢れていた大坂は、まさに理想的な土地だったろう。もし実現されていたとしたら大阪と東京の二つの大学体制で明治は出発したことになるが…。

実際には洪庵の江戸出仕とその没後に適塾は閉鎖し、ほどなく懐徳堂も閉鎖。(閉鎖後に適塾関係者は大阪医学校の開校へ尽力、その医学の伝統がようやく阪大へ引き継がれる。)ここに蕃書調所頭取である古賀からも一目置かれた大坂の学知は衰え、大阪と言えば大陸市場向けに栄える経済にのみ人心が浮かれる「大大阪」なるものに変質してしまう。日本人のなかでの大阪のイメージは今でも大方は後者の「商都」としてのイメージを引きずるままだが、蕃書調所の末裔としては古賀が存命であれば、そうした今の大阪(ないしは洪庵の末裔たちの阪大)の変わりぶりをどのように見るか…伺ってみたいところである。


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