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« 5月9日の関西外大での地域研究VIIIは休講です! | トップページ | 北欧史概説a »

2011年5月 6日 (金)

スウェーデン歴史会議2011〜両極端にあるスウェーデンと日本〜

ゴールデンウィークを潰して、ユーテボリ大学で開催されているスウェーデン歴史会議2011に参加しています。僕自身ペーパーはありませんが、立場的にはこの会議中に開催される史学雑誌(Historisk tidskrift)の年次総会に国際編集委員の一人として参加するということもあります。

スウェーデン歴史会議は、史学雑誌の発行母体ともなっているスウェーデン歴史協会が3年に一度開催している学会で、スウェーデン中の歴史学者が一同に会する学会です。北欧諸国全体の歴史学会となると、これまた3〜4年に一度開催される北欧歴史家会議があります。後者は数カ国語が乱れ飛ぶ国際的な雰囲気に溢れ、各国の歴史学者の傾向の違いを比較できるのに対して、前者はほとんどが顔見知りで、スウェーデン語だけで対話が繰り返される親密な雰囲気に溢れています。

今回の学会の総合テーマは「スウェーデンにおける歴史〜ネイションのなかに把握できるもの」。日本と似たように、スウェーデンの歴史学界でもグローバル・ヒストリの構築という問題、ならびに歴史学という学問のグローバル化という問題をめぐって議論は盛んで、今回の総合テーマはそうしたグローバルな歴史学の展開を見据えたときに、あえてその前提として従来の研究が明らかにしてきたネイションのなかに、あるいはそうしたネイションを明らかにしてきた研究手法のなかに垣間見られるグローバル的要素を再考しようというものです。

「グローバル・ヒストリとは何か」とか、「歴史学のグローバル化はいかに実現されるか」とかいった議論は、確かに最近の日本の歴史学界でも、日本学術会議の提言や阪大の文学研究科の活動に見られるのですが、あえてネイションないしネイション研究を再考することからグローバル・ヒストリの議論を出発させる点が大きく異なり、これはいかにも「スウェーデン的」発想だと思います。

スウェーデンと日本の歴史学界と比較した場合、その問題関心のもたれ方が両者の歴史に対する意識の差から大きく異なると思います。日本の場合、歴史に対する意識は、例えば1868年の明治維新や1945年の太平洋戦争敗北…あるいは2011年の東日本大震災もそうなるでしょうか…といったターニングポイントが歴史を断絶し、転換したというイメージに強く影響されているため、歴史学における問題関心の持たれ方も、多かれ少なかれ「断絶か、連続か」を問うところから出発しています。

これに対して、スウェーデンにおける歴史への意識は、その連続性あるいは継続性に強く依拠しています。北欧諸国のなかでも、デンマークなら1864年のスレースヴィ戦争敗北や1945年のナチス・ドイツからの解放、ノルウェーなら1814年の独立や1905年のスウェーデンとの連合王国からの自立、フィンランドなら1917年の独立…といったように、大抵はそれらの国々における歴史への意識は、日本と似たように近代的ネイションの歴史的形成過程のなかで断絶ないしは転換を経験していますから、歴史学における問題関心の持たれ方も「連続か、断絶か」を問う場合が多い。

しかしスウェーデンだけは決定的に異なり、1809年のクーデタ以降、ここ2世紀にわたる近代的ネイションの形成過程において、歴史的に断絶や転換を意識させるモメントを経験していないのです。それゆえ、歴史学における問題関心の持たれ方も、そうしたネイションとしての連続性・継続性に立脚しつつ紡ぎ出される傾向にあるわけです。今回のスウェーデン歴史会議における総合テーマも、確かに世界的規模のグローバル化という今日的現象とそれに裏付けられたポストコロニアリズムのような思潮の拡散による伝統的ディシプリンの刷新の必要といった背景はありますが、そうしたときにグローバルな人的・物的ネットワークの展開などの議論にむかわず、あえてネイションの枠組みからグローバル性を問い直そうとするのは、いかにもスウェーデン的歴史意識に裏付けらたものと言えるでしょう。

連続性・継続性に裏付けられた歴史意識と対極に位置する意識をもった日本で生まれ育った僕からスウェーデン歴史会議における議論を見ると、ネイションのなかにグローバル性を見いだすとは言っても、結局、国語化されたスウェーデン語が紡ぎ出す議論でしかなく、そうした議論の枠組みそのものが近代的ネイションの思考枠にとらわれがちである…換言すれば、本来、多言語が縦横無尽に飛び交う時空間のなかで紡ぎ出されていたバルト海あるいはスカンディナヴィアの知の構造の実態を忘却しがちな傾向にある…といった印象を持ちます。

だからこそなのでしょう。今回の会議では、史学雑誌の編集メンバと話をする機会がありますが、彼らもスウェーデン歴史学のもつ限界…つまり強固な連続性の意識を否定できないがゆえに内在する思考枠の限界を意識していて、皆、口を揃えて僕のような存在との共同作業が今のスウェーデンの歴史学には必要なのだと言ってきます。一見、親密に見えるこの会議の裏には実はとても真剣な限界克服への意識が秘められているのです。そうした経験を踏まえて、僕は益々スウェーデンと日本の歴史学、あるいはそれを裏付ける歴史意識の極端な差異…対極性を意識するようになっています。

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