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2009年10月30日 (金)

ヨッフムに猛省を迫られる

くそみそに忙しいので、やけくそがてら音楽の与太話を。僕にとってオイゲン・ヨッフムと言えば、中学生の頃、僕にeuと綴られたドイツ語の発音がオイであることを知らしめてくれた…そんな程度の指揮者だった。ヨッフムの指揮したカルミナ・ブラーナだとか、ブルックナーのミサ曲だとか、そうした類の宗教曲は好きだった。けれどもヨッフムによるブルックナーの交響曲は、今まで聴くことはなかった。もちろん知らなかったわけではない。中学生時代にNHKで見た晩年のアムステルダム・コンセルトヘボウとのブルックナーの演奏(5番だったか)を見たときに、「こんなおじいちゃんが、よくもこんなにもバリバリと音を出すものだ。」と感心したことを覚えている。でも「ブルックナーと言えば、朝比奈だ。」とか、「いやいや、マタチッチ。」とか、「何をおっしゃる…クナッパーツブッシュでしょう。」とかいった話が巷でなされるとき、必ず「やっぱり、ヨッフムだよね。」とかいうかたちで彼の名前もあげられると、中高生の頃の僕は、茨城の田舎者だったにも関わらず小生意気にも、そんな「ブルックナー指揮者」とかいう話に与するのが大嫌いだったので、ヨッフムによるブルックナーの演奏を自然と毛嫌いするようになってしまっていた。


ブルックナーが嫌いだったというわけではない。今でも日常のなかで突破力が求められているときなどに、僕は好んでブルックナーを聞いて気分を高揚させることがある。そんな僕にとってのブルックナーはいつもカラヤンによる演奏だった。高校生の頃カラヤンが死んだ時に聞いた彼の最後の管弦楽曲の録音であるウィーン・フィルとの7番交響曲(そしてその直前の8番交響曲)が決定的だった。浪人したときにはじめた東京生活で仕送りされてくるお金を少しづつ貯めて、ようやくカラヤンによる全集を手に入れた。統一直後の頃のドイツからの輸入盤で、あろうことか2番交響曲のCD収録にミスがあり、なぜかリストの交響詩集になっていたのだけれども、それを購入したレコード店にかけあったら即座に2番交響曲のCDを手配してくれ、「東京で生活するということは、こんなに便利なものなのか!茨城では考えられない!」と実感した思い出のある全集だった。ここからはじまってたぶんカラヤンのディスコグラフィにあるおおよそのブルックナー録音は手元にあるのだと思う。カラヤンの演奏は、上述のブルックナー好きの人たちからすれば、ときに邪道に値するものだろう。きざったらしくベンヤミン的に言うならば、複製技術を多用してクラシック音楽を大衆化させた結果、「ブルックナー的アウラ」がカラヤンの演奏には失われている…といったところか。


(カラヤン論はいずれどこかでやってみたい気もするのだが、そもそも人類の歴史はある意味情報の複製の上で展開してきたことを思えば、複製芸術っていったものは現代社会に限られた問題ではないと根本的には思っているのだが、カラヤンについて言えば、複製芸術としてのクラシック音楽を大衆化することに功績があったことは事実だろう。けれど、だからといって大衆化の結果「アウラ」が失われたわけではなく、例えばカラヤンは世界中の音楽マーケットがもとめた需要を巧みに活かして、自ら「帝王」としてのカリスマを築き上げたと理解するならば、複製芸術時代に大衆化されたクラシック音楽に適応する新たな「聖性」あるいは「アウラ」をカラヤンは築き上げたのだと評価すべきだろうね。ここで注目したいのは、複製芸術時代に対応した新たな音楽のあり方を模索したもう一人の人間であるグールドの存在。グールドはスタジオ録音に引き籠もって、臭ってきそうな不潔っぽい風貌でも、「オタク」芸術の極致として音楽マーケットに新たな「聖性」を獲得した。かたやカラヤンは、ポルシェやジェット機に美麗なモデルあがりの何番目かの奥さんを乗せてたりするような、華麗なプライベート生活をも武器として、大衆が羨む「セレブ」としてのイメージをバリバリと振りかざし、音楽マーケットに「聖性」を確立した。「オタク」と「セレブ」という両極端に位置する者が、大衆消費社会に応じた新しいクラシック音楽の「聖性」を得る過程で、共に複製技術に着目していた点は興味深い。かくかくしかじかで…大衆消費社会における「聖性」の創生を技術に裏付けて成し遂げたという点で、僕はカラヤンの最新技術をバリバリと取り入れた「工学」的音楽も大好きで(…そういう意味で僕はもちろんグールドも大好きだが…)、例えばブルックナーで言えば、カラヤンは第二次大戦中の1944年にプロイセン国立歌劇場管弦楽団と8番交響曲の第4楽章のみを…な、なんとステレオ録音していたりする。1944年の時点のステレオ録音というだけで…技術好きな僕にはたまらないのだ。)


僕は今でも浪人時代にようやく手に入れたカラヤンの全集をことさら愛聴しているけれども、大学教員となった大阪での今の生活は一撃必中の正面突破を求められる毎日なので…とりわけここ一週間あまりは…カラヤンとは違うブルックナーが聴きたくなった。例によってiTune Storeのブルックナーの品揃えはあまりよろしくないので、急遽昔なじみのレコード店から廉価版というだけでヨッフムがドレスデン国立管弦楽団と録音した全集を取り寄せた。それを聴いて僕は愕然とした。美麗と言えば聞こえは良いが風呂場で録音されたような曖昧模糊としたカラヤンの演奏とは全く異なり…分厚い和音を構成する一つ一つの音が際立って聞こえてくるのである。ブルックナーの交響曲を(よく言われるのでこっ恥ずかしいのだが)教会建築に例えるならば、カラヤンの録音はその建物全体を遠くから俯瞰して建物全体の美観を強調するようなものであるのに対して、ヨッフムの録音は建物を組み立てる建材の一つ一つやファサードに刻まれた彫刻の一つ一つをも強調するようなもの。この録音はヨッフム70代後半のものなのだけれども、明瞭な響きと静寂な休止との間のコントラストの描き方が自由自在で、70代後半の老人が指揮しているようにはとても思えない。4番や8番などの有名どころでカラヤンはノヴァーク版を用いず原典版やハース版を使うことが多かったから、そうした版に馴れた僕の耳にはノヴァーク版の演奏が斬新に聞こえたのかも知れない。ドレスデンのルカ教会という録音場所の響きも関係しているか。とにかく食わず嫌いの結果、僕はこんなすばらしい演奏を今まで知らずにきてしまったと、ヨッフムの演奏に猛省を迫られるここ数日。ヨッフムによって目から鱗が落ちるブルックナー体験が続いている。


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