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2009年5月25日 (月)

ウップサーラ滞在の終わりに

昨晩から右足の親指の付け根が激しく痛む。耳鳴りだとか、足の痛みだとか…体の不調を時候挨拶がわりに述べるなんて、会話の作り方がスウェーデン的になってきてしまった。この足の痛みは、週末に「今回のウップサーラ滞在の最後」と意気込んで、土曜日にはウップサーラ郊外にあるリネーの荘園、日曜日には「キュウリの町」ヴェステルオースを訪れたせいかも知れない。

5月23日はカール・フォン・リネーの誕生日でウップサーラ界隈に残るリネー関連の施設は入場料が無料となり、それらの場所を結ぶリネー・バスが走る。この機会に僕はウップサーラの中心街にあるリネー博物館・庭園から郊外のハンマービーにあるリネーの荘園を尋ねた。リネーはスウェーデン南方スモーランドの聖職者の家系の生まれだが、1757年に貴族に叙されて以降フォン・リネーを名乗り、翌年ウップサーラ南方の宗教的にはダンマルク教区(socken→教区)・行政的にはヴァクサラ郡(härad→郡)にあるハンマービー荘園を購入した。彼はウップサーラという都会の非衛生的な環境を嫌って、農作業で生計を立てられる農場を得たかったと言われている。夏の間リネーはよくウップサーラの学生をハンマービーへ招き、今はスウェーデン農業大学の農場が広がるKungsängenまで実習を兼ねたエクスカージョンに出かけたという。ハンマービー自体には18世紀当時の質素な木造家屋が残るだけなので、今ここを訪れた者はかつてここを訪れたリネーの学生たちと同じように、ハンマービーの「溢れる自然」に接することになる。「溢れる自然」については先にこのブログで発言をしたばかりだけど、このハンマービーには欧米(…アメリカ植民地からも学生は来ていた…)各地から知識人が来訪したことを思えば、18世紀啓蒙のコスモポリタニズムを演出した「自然」ということになる。またスウェーデンの歴史に詳しい者ならば、18〜19世紀当時の姿をよく保存したこの荘園を訪れることで、割当義務制度のあり方を目の当たりにできるだろう。

(スウェーデン軍制で徴兵を担ったこの制度の下、貴族領たるハンマービーは二人の騎兵の供出を求められていた。一般的に言って当時のスウェーデンの平民たちは名字をもたなかったが、割当義務制度を通じて兵士となった者はその出身地に由来する名字をもつことになった。例えば、ハンマービー出身の騎兵が平時に生活した土地には、HammarやHammarbronといった名字を見いだすことができる。ちなみに、このハンマービーが含まれるダンマルク教区の"Danmark"という名前はスウェーデン語で「デンマーク」を意味する単語と同じだけれども、「境目の森林」とか「境目の沼地」くらいの意味で、デンマークとは何も関係がないそうだ。)

スウェーデン独特の伝統的風土・景観を今に伝え、他方でその地の意義がリネーの事績を通じて「世界」ともつながりうるハンマービー。もし僕がスウェーデンの文化行政に絡む人間ならば…ここをスウェーデンにおける次の「世界遺産」候補としてユネスコに推薦すると思うな…(笑)。そこはスウェーデンの「溢れる自然」のなかにあって、かつてリネーが「世界」を創造した場所。スウェーデンの自然と歴史に少しでも興味を持たれる方は、スウェーデン的な「自然」の接し方を実感できる場所だと思うので、ぜひ季節の良い時期にこのハンマービーを訪れてみて欲しい。

翌24日は、メーラレン湖西端のヴェステルオースを訪れた。ヴェステルオースは、今回のウップサーラ滞在をめぐる私的「物語」を完成させる上で是非とも訪れておきたい場所だった。ウップサーラからバスにて約90分。内陸の鉱山地帯とメーラレン湖を結ぶ「黒い川(スヴァルトオー)」の河口に、古くより物流の拠点として栄えた町である。古くより宗教・政治の中心地だったガムラ・ウップサーラとメーラレン湖を結ぶフューリス川に広がったウップサーラはかつて「東のアーロス(河口)」と呼ばれたが、ヴェステルオースは「西のアーロス」と呼ばれていた。現在のヴェステルオースはスウェーデン発の水力発電所がつくられた工業都市として、あるいは近代以降盛んになったキュウリ栽培でその名前が知られるくらいだと思う。しかし以上に述べた経緯から中世以来スウェーデン王国にとっては司教座も置かれるほど重要な町だった。(ウップサーラに大司教座が置かれた。)とりわけカルマル連合から自立した直後のヴァーサ王朝下では、このヴェステルオースが歴史の舞台を提供した。真っ先に思い起こされるべきは、1527年グスタヴ1世がこの地に招集した全国身分制議会において福音主義ルター派への改宗が決定されたこと。そして兄弟との政争に敗れたグスタヴ1世の長男エーリック14世が1577年に毒殺された後、彼の亡骸がここの大聖堂に安置されていること。歴代のヴァーサ朝の国王はエーリック以外ウップサーラ大聖堂に眠っているが彼だけは未だにウップサーラに帰れないでいる。

個人的に今回の「物語」を完成させる上でこの町を訪れたいと思った理由は、この町が「スウェーデン」の文化的構築を考える上で重要な人物の出身地だったからだ。その人物はウップサーラ大学医学部教授であり、ゴート主義を唱えたウーロフ・リュードベック。最近の僕の研究で僕の心をとらえて放さない人物だ。彼の父親は名前をヨーハンネス・リュードベック(あるいはリュードベッキウス)といい、17世紀前半に「ルターの町」ヴィッテンベルクに留学して研鑽を積み、帰国後はウップサーラ大学で神学部教授となった人物。彼はウップサーラでかのグスタヴ2世アードルフの知己を得て宮廷説教師を担い、ヴェステルオース司教まで務めた。(…グスタヴ2世アードルフ欽定聖書も彼の重要な業績の一つだ…。)ヴェステルオースの歴史で言えば、彼はスウェーデンではじめてのギムナジウムをそこに創設したことでも知られる。ヨーハンネスは二人の妻を娶ったが、後妻との間に産まれた子供が後に有名になるウーロフだった。ウーロフは長じてウップサーラ大学医学部教授となり、ウーロフの息子を介してリネーが育ち、リネーの教えの下に日本を訪れたチューンベリが育った。ここでもう一点興味深い事実として、ヨーハンネスの孫娘がP. O. ノベリウスという人物と結婚したことを紹介しておこう。このノベリウスの家系にはやがて19世紀に至り、ダイナマイトを発明したアルフレード・ノベルが産まれる。ここで僕たちは実に興味深い一つの歴史的事実に出くわす。つまりO. リュードベック以降ウップサーラ大学に引き継がれた学知の系譜と、武器産業(…今はノベル賞…)を通じて世界に知られたノベルの系譜は、もとをたどれば、ヴェステルオースのヨーハンネスという一人のスウェーデン人の遺伝子から出発した…ということである。誇大妄想的な発言は厳に慎むべきかと思うけれども、しかしゴート主義にせよ、博物学にせよ、ダイナマイトにせよ、ノベル賞にせよ、文化的に言ってスウェーデンを世界と結びつける「ポイント」にリュードベックの家系があるということは、スウェーデン史を実におもしろいものにしてくれる。

近世以降、ウップサーラを中心に担われたスウェーデンの知的雰囲気の起源を辿るという意味で、ヴェステルオースを訪れることは僕にの今回の滞在の「物語」を完成させるうえで大切だった。あと数日後には僕は日本に帰るけれども、今となって振り返ってみれば、今回の滞在は、エラスムス・ムンドゥスの仕事にせよ、自分の研究に関する資料収集にせよ、ときにはウップサーラの地で、またあるときには「溢れる自然」のなかで、スウェーデンと世界とが邂逅する「ポイント」を探す機会を僕に与えてくれたと言えるかも知れない。今回の滞在では、若き日のリネーよろしく、北はルーレオ(ノルボッテン)から南はルンド(スコーネ)まで南北スウェーデンを縦断する形でよく歩いた。こうした経験を可能にした背景としては、緑萌える時期のスウェーデンに滞在することで、スウェーデン人の「自然」との接し方を目の当たりにした…というタイミングが大きい。けれども、昨年くらいから「自然と民族」などというキーワードで『リネーの帝国』構想を掲げてきた僕に、「現場を知らなければ文章に何の説得力も得られないわ。」との妻の叱咤が占めた役割も大きい。(体の不調をあれこれ抱えた僕を支えてくれた妻にはあらためて感謝したい。)スウェーデンと世界との邂逅を探る…おかげで僕はこの滞在の終わりに、(…これからしばらくの僕の研究そのもののプロットとなると思う…)そんな「物語」のプロットを見つけることができた。

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