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2009年5月

2009年5月28日 (木)

「おおうけ」な幕引き

ウップサーラ大学神学部での最後の日。今回の滞在でコンタクト・パーソンとなってくれたマグヌスとウップサーラでの研究や仕事の話でひたすらしゃべった後は、例によってキッチンに向かいフィーカ(コーヒー・ブレイク)でしめる。この滞在はまさに「フィーカにはじまりフィーカにおわる。」といった感じだ。神学部のみなさん5〜6人と話していたのだけれども、最後のフィーカは「おおうけ」だった。神学部のみなさん相手だから…「ヴェステルオースの大聖堂に行ってヨーハンネス・リュードベッキウスに挨拶してきたよ。」で「ややうけ」。で、ウップサーラ大学のみなさん相手だから…「足がすごく痛くて痛風みたいな症状なんだけど、カール・フォン・リネーは日本酒の説明で飲み過ぎると痛風になるって書いているんだよね。」で…スウェーデン的会話の流れでは「おおうけ」。

一般的に言ってスウェーデン人の日常会話では体の不調がよく話題にあげられ、同情…というよりはお互いの不健康自慢で盛り上がる。今回の滞在で僕は、複合国家の統合理念としてのゴート主義と「スウェーデン」像の展開について調べていたから、最後のフィーカではそうした「研究成果」も踏まえて、ちょっと知的に僕の不健康自慢をしてみたのである。

実際、リネーは18世紀半ばの時点で日本酒について書いている。正確には「日本の öl について」なのだけれども、今のスウェーデン語で「ビール」を意味してしまう öl という単語について言えば、18世紀当時には現在のように下面発酵させて澄んだ黄金色になる「ビール」はスウェーデンには普及していなかったから(…その普及は19世紀後半以降である…)、リネーの時代の感覚で言えば「穀物類を原料とする醸造酒」くらいの意味でとらえなければならない。だから、18世紀の史料を翻訳する際に öl を「ビール」と訳してはならない。で、これが当時の日本の例で言えば、「米という穀物を原料とする醸造酒」…つまり日本酒ということになる。

スウェーデン語で「痛風」は gikt というのだけれども、僕はこの単語をリネーの「日本の öl について」という文章のなかで覚え、記憶に残っていた。リネーは、日本酒について「とても香り高く豊かな甘味をもつ酒だが、飲み過ぎると gikt を引き起こす。」と紹介している。(今、その文章が手元にないのだが、おおよそそのような内容だった。)痛風に関する疫学的研究によれば、アルコールは痛風発作の可能性を高め、とりわけビールはその可能性をもっとも高めるらしい。昨年の健康診断の際「尿酸値が高い。」との指摘を受けていたし、今回の右足親指のつけねが「骨でも折れたか」のように激しく痛んだ症状からして、僕の症状も痛風発作ではないか(…帰国したら病院にかけこもうと思う…)と思っているのだが、それ以上にリネーという人物の(…弟子のチューンベリの日本滞在の前に日本酒に関する文章は書かれているので、おそらくケンペルあたりの日本紹介の文章を通じてだろうけれども…)日本の情報まで網羅した博物学者としての知見、穀物類を原料とする醸造酒と痛風の関係を指摘した科学者としての力量に唸るばかり…足の痛みに唸るどころではない。

(18世紀に外交関係のなかったスウェーデンで日本のことがよく知られていたという事実を思うと、僕たち日本人が中学・高校の歴史で習う「鎖国」とはいったい何だったのか…と思う。スウェーデンがらみで恐縮なのだけれども、そもそも「鎖国」という言葉も17世紀後半にウップサーラで勉強し、スウェーデン外交使節団の一員だったこともあるケンペルの『日本誌』に由来しているんだよね。でも…東アジア世界的文脈ではそろそろ「海禁」くらいの言葉に言い直したほうが良いんじゃないかな?)

そんなこんなで…今日、笑いのうちにウップサーラ大学での日々の幕は閉じられる。神学部のみなさん、ありがとう。ウップサーラを知れて良かった。そして楽しかった。以上。

2009年5月25日 (月)

ウップサーラ滞在の終わりに

昨晩から右足の親指の付け根が激しく痛む。耳鳴りだとか、足の痛みだとか…体の不調を時候挨拶がわりに述べるなんて、会話の作り方がスウェーデン的になってきてしまった。この足の痛みは、週末に「今回のウップサーラ滞在の最後」と意気込んで、土曜日にはウップサーラ郊外にあるリネーの荘園、日曜日には「キュウリの町」ヴェステルオースを訪れたせいかも知れない。

5月23日はカール・フォン・リネーの誕生日でウップサーラ界隈に残るリネー関連の施設は入場料が無料となり、それらの場所を結ぶリネー・バスが走る。この機会に僕はウップサーラの中心街にあるリネー博物館・庭園から郊外のハンマービーにあるリネーの荘園を尋ねた。リネーはスウェーデン南方スモーランドの聖職者の家系の生まれだが、1757年に貴族に叙されて以降フォン・リネーを名乗り、翌年ウップサーラ南方の宗教的にはダンマルク教区(socken→教区)・行政的にはヴァクサラ郡(härad→郡)にあるハンマービー荘園を購入した。彼はウップサーラという都会の非衛生的な環境を嫌って、農作業で生計を立てられる農場を得たかったと言われている。夏の間リネーはよくウップサーラの学生をハンマービーへ招き、今はスウェーデン農業大学の農場が広がるKungsängenまで実習を兼ねたエクスカージョンに出かけたという。ハンマービー自体には18世紀当時の質素な木造家屋が残るだけなので、今ここを訪れた者はかつてここを訪れたリネーの学生たちと同じように、ハンマービーの「溢れる自然」に接することになる。「溢れる自然」については先にこのブログで発言をしたばかりだけど、このハンマービーには欧米(…アメリカ植民地からも学生は来ていた…)各地から知識人が来訪したことを思えば、18世紀啓蒙のコスモポリタニズムを演出した「自然」ということになる。またスウェーデンの歴史に詳しい者ならば、18〜19世紀当時の姿をよく保存したこの荘園を訪れることで、割当義務制度のあり方を目の当たりにできるだろう。

(スウェーデン軍制で徴兵を担ったこの制度の下、貴族領たるハンマービーは二人の騎兵の供出を求められていた。一般的に言って当時のスウェーデンの平民たちは名字をもたなかったが、割当義務制度を通じて兵士となった者はその出身地に由来する名字をもつことになった。例えば、ハンマービー出身の騎兵が平時に生活した土地には、HammarやHammarbronといった名字を見いだすことができる。ちなみに、このハンマービーが含まれるダンマルク教区の"Danmark"という名前はスウェーデン語で「デンマーク」を意味する単語と同じだけれども、「境目の森林」とか「境目の沼地」くらいの意味で、デンマークとは何も関係がないそうだ。)

スウェーデン独特の伝統的風土・景観を今に伝え、他方でその地の意義がリネーの事績を通じて「世界」ともつながりうるハンマービー。もし僕がスウェーデンの文化行政に絡む人間ならば…ここをスウェーデンにおける次の「世界遺産」候補としてユネスコに推薦すると思うな…(笑)。そこはスウェーデンの「溢れる自然」のなかにあって、かつてリネーが「世界」を創造した場所。スウェーデンの自然と歴史に少しでも興味を持たれる方は、スウェーデン的な「自然」の接し方を実感できる場所だと思うので、ぜひ季節の良い時期にこのハンマービーを訪れてみて欲しい。

翌24日は、メーラレン湖西端のヴェステルオースを訪れた。ヴェステルオースは、今回のウップサーラ滞在をめぐる私的「物語」を完成させる上で是非とも訪れておきたい場所だった。ウップサーラからバスにて約90分。内陸の鉱山地帯とメーラレン湖を結ぶ「黒い川(スヴァルトオー)」の河口に、古くより物流の拠点として栄えた町である。古くより宗教・政治の中心地だったガムラ・ウップサーラとメーラレン湖を結ぶフューリス川に広がったウップサーラはかつて「東のアーロス(河口)」と呼ばれたが、ヴェステルオースは「西のアーロス」と呼ばれていた。現在のヴェステルオースはスウェーデン発の水力発電所がつくられた工業都市として、あるいは近代以降盛んになったキュウリ栽培でその名前が知られるくらいだと思う。しかし以上に述べた経緯から中世以来スウェーデン王国にとっては司教座も置かれるほど重要な町だった。(ウップサーラに大司教座が置かれた。)とりわけカルマル連合から自立した直後のヴァーサ王朝下では、このヴェステルオースが歴史の舞台を提供した。真っ先に思い起こされるべきは、1527年グスタヴ1世がこの地に招集した全国身分制議会において福音主義ルター派への改宗が決定されたこと。そして兄弟との政争に敗れたグスタヴ1世の長男エーリック14世が1577年に毒殺された後、彼の亡骸がここの大聖堂に安置されていること。歴代のヴァーサ朝の国王はエーリック以外ウップサーラ大聖堂に眠っているが彼だけは未だにウップサーラに帰れないでいる。

個人的に今回の「物語」を完成させる上でこの町を訪れたいと思った理由は、この町が「スウェーデン」の文化的構築を考える上で重要な人物の出身地だったからだ。その人物はウップサーラ大学医学部教授であり、ゴート主義を唱えたウーロフ・リュードベック。最近の僕の研究で僕の心をとらえて放さない人物だ。彼の父親は名前をヨーハンネス・リュードベック(あるいはリュードベッキウス)といい、17世紀前半に「ルターの町」ヴィッテンベルクに留学して研鑽を積み、帰国後はウップサーラ大学で神学部教授となった人物。彼はウップサーラでかのグスタヴ2世アードルフの知己を得て宮廷説教師を担い、ヴェステルオース司教まで務めた。(…グスタヴ2世アードルフ欽定聖書も彼の重要な業績の一つだ…。)ヴェステルオースの歴史で言えば、彼はスウェーデンではじめてのギムナジウムをそこに創設したことでも知られる。ヨーハンネスは二人の妻を娶ったが、後妻との間に産まれた子供が後に有名になるウーロフだった。ウーロフは長じてウップサーラ大学医学部教授となり、ウーロフの息子を介してリネーが育ち、リネーの教えの下に日本を訪れたチューンベリが育った。ここでもう一点興味深い事実として、ヨーハンネスの孫娘がP. O. ノベリウスという人物と結婚したことを紹介しておこう。このノベリウスの家系にはやがて19世紀に至り、ダイナマイトを発明したアルフレード・ノベルが産まれる。ここで僕たちは実に興味深い一つの歴史的事実に出くわす。つまりO. リュードベック以降ウップサーラ大学に引き継がれた学知の系譜と、武器産業(…今はノベル賞…)を通じて世界に知られたノベルの系譜は、もとをたどれば、ヴェステルオースのヨーハンネスという一人のスウェーデン人の遺伝子から出発した…ということである。誇大妄想的な発言は厳に慎むべきかと思うけれども、しかしゴート主義にせよ、博物学にせよ、ダイナマイトにせよ、ノベル賞にせよ、文化的に言ってスウェーデンを世界と結びつける「ポイント」にリュードベックの家系があるということは、スウェーデン史を実におもしろいものにしてくれる。

近世以降、ウップサーラを中心に担われたスウェーデンの知的雰囲気の起源を辿るという意味で、ヴェステルオースを訪れることは僕にの今回の滞在の「物語」を完成させるうえで大切だった。あと数日後には僕は日本に帰るけれども、今となって振り返ってみれば、今回の滞在は、エラスムス・ムンドゥスの仕事にせよ、自分の研究に関する資料収集にせよ、ときにはウップサーラの地で、またあるときには「溢れる自然」のなかで、スウェーデンと世界とが邂逅する「ポイント」を探す機会を僕に与えてくれたと言えるかも知れない。今回の滞在では、若き日のリネーよろしく、北はルーレオ(ノルボッテン)から南はルンド(スコーネ)まで南北スウェーデンを縦断する形でよく歩いた。こうした経験を可能にした背景としては、緑萌える時期のスウェーデンに滞在することで、スウェーデン人の「自然」との接し方を目の当たりにした…というタイミングが大きい。けれども、昨年くらいから「自然と民族」などというキーワードで『リネーの帝国』構想を掲げてきた僕に、「現場を知らなければ文章に何の説得力も得られないわ。」との妻の叱咤が占めた役割も大きい。(体の不調をあれこれ抱えた僕を支えてくれた妻にはあらためて感謝したい。)スウェーデンと世界との邂逅を探る…おかげで僕はこの滞在の終わりに、(…これからしばらくの僕の研究そのもののプロットとなると思う…)そんな「物語」のプロットを見つけることができた。

2009年5月22日 (金)

ルンドの友人たちに思う

ここ一週間ほど、僕は耳鳴りが酷い。そこで今週の水曜日に気分転換がてら8年前に留学したルンドへ行くことを思い立った。たまたまユーテボリ大学歴史学部にいる友人研究者のマーティン(現代思想史が専門)から、ルンド大学歴史学部にいる共通の友人ルースベ(近代イラン文化史が専門)の博士論文の最終口頭試問があり、その夜には彼のパーティーがあるという報せを受けたこともある。

(今回のルンド行きのために飛行機やら、電車やら、ホテルやらの情報をあれこれと検索して、旅行の計画をたて、予約をして…という作業に集中していたとき には、不思議と耳鳴りがやんだ。以前も発言したことだけれど、どうも今回のウップサーラ滞在では自由な時間がある一方で体調がおもわしくないときが多く、 はじめ僕はその理由を「年を取ったから」と思っていた。けれど、どうやら自由があると僕の体は自分の体の変調や不調を感じ、逆にやらねばならない事を抱え ているときはそれを感じないでいるようだ。自由だけれども体に問題があるのと、忙しいけれども体に問題がないのと…どちらが良いのだろう?)

この日の主人公であるルースベとは、彼の奥さんであるアグネタ(…彼女ももとは歴史学部の学生で、今でも覚えているけれどルンド大学歴史学部のキッチンで最初に声をかけてくれたのが彼女だった…)、息子のヘクトルとも、僕、僕の妻、息子と共に年齢が近いということもあって、ルンド滞在以来仲良くしている。それとアップル信者ということでも、僕たちはよき友人だ。彼は歴史学部のシスアド的存在で、歴史学部にとっては誰からも信頼されているPC関連のよき助言者。組織における僕のポジションに似ているが、彼は以前よりMac信者で、すべてのPCの問題を「Macならばそんな問題は起きない。」というのが口癖…僕はそんなことは一切口にしない…心に思っていても(笑)。当然お互いに使っている携帯電話はiPhoneなのだけれども、そこにインストールされたゲームに子供が興じる姿まで、僕のところとそっくり。

おそらくルースベは8年前に僕が滞在していたとき、学位論文執筆の資格保有者のなかで最も若かった。そんな彼がようやく博士論文を終えたというのである。この5月という時期にスウェーデンにいられたこと自体奇跡的なのだから、「ルースベに会いに行かなきゃ」となにやら運命めいたものさえ僕は感じていた。

急遽思い立ったルンド行きだったので飛行機も電車も予約がままならず、彼の口頭試問には間に合わなかったがパーティーには参加できた。ルンドはウップサーラに比べると暖かく、空に浮かぶ雲も高いように思う。スコーネの風景は、今が満開の菜の花の黄色い絨毯で彩られている。ウップサーラに慣れた身には、ルンドの町並みは随分とこぢんまりと感じる。

グランド・ホテル(…デンマークとスウェーデンの歴史家たちによって最初の北欧歴史家会議が開かれた場所。格安の部屋もあるが、そこを予約すると裏窓の長めの悪い部屋に通される…)にチェックインを済ませた後、パーティーまでの時間、歴史学部を訪れた。そこで早速、最近子供が産まれて夜のパーティーに参加できないミーア(冷戦文化史が専門)と会ってフィーカ。彼女と日本での研究連携について話をしていると、僕がいた頃は学部長をしていたキム先生(社会運動史が専門)がやってきて(…彼はこの日の主役のルースベの指導教授なのだけれども…)「お前が日本から来ると聞いた」と声をかけてくれた。夕方からのパーティーには、ルースベ・アグネタ・ヘクトル親子はもちろん、歴史学部の懐かしい面々が集まった。

僕が留学したときに世話になったハラルド先生(複合国家論でお馴染み、近世国家論が専門)やハンネさん(デンマーク史が専門)をはじめ、挙げたらきりがないけれど、さすがにエヴァ先生(現在の北欧歴史学界で誰もが敬意を払う女性研究者、近世社会史が専門)まで僕に声をかけてくれたときには感激した。今回、僕は誰にもルンドへ行くと連絡をしていなかったので、僕の「おしかけ訪問」はルンドの皆さんにはサプライズすぎて、いい迷惑だったかもしれない。けれど、ここの人たちとは話をするとその瞬間、すぐに打ち解けることができる。そんな温かさが、ルンドの良いところだ。

「なんでお前がここにいるんだ?」と問われる度に、「エラスムス・ムンドゥスでウップサーラ大学に滞在しているんだ。」と同じ答えを繰り返す。ここでわかったことはエラスムス・ムンドゥスというプログラムがルンドではあまり認知度が高くないということ。そりゃそうだ…エラスムス・ムンドゥスでもユーロ・カルチャーの協力校はスウェーデンでも今のところウップサーラ大学だけだから。

会話の流れとしては、ほとんどの人から「ルンドとウップサーラとどっちが良い?もちろんルンドだよな?」とか、「お前はいつからコンサバに転向したんだ?」なんて言葉をもらう。ここで、ウップサーラへのルンドの「対抗」意識が「冗談」や「からかい」のネタにされていることがわかる。日本の場合、例えば東大と京大はお互いの行くべき道の違いを各々尊重しているかのように見えるので激しい対立意識があるようにも見えないのだが、(…ちなみに東京と大阪との間に見られるような「対抗」は、スウェーデンにおいてはストックホルムとユーテボリとの間に見られる…どちらの場合でもセカンドランクにあるほうが強く「対抗」意識を見せている点、共通しているのだけれども…)ルンドとウップサーラの「対立」は「左対右」、「革新対保守」といったような型に従って仕立てられるので「からかい」の内容がわかりやすく、会話のネタとして使いやすい素材。僕の周りで実際の対立を感じたりはしないが、ルンドは「スウェーデン中央とは違う!」という自律精神を強く抱いている環境だということは事実だろう。僕はと言えば、単に寒がりだからということもあるのだけれども(…こんな寒がりでスウェーデンを研究しているのも皮肉だ…)、「スコーネの暖かい天気とみんなの暖かい気持ちがあるからルンドが良い。」なんて…スコーネの自然・ルンド大学の環境に対するルンドの人たちの自負に応えるような答えを返す。

ルースベが気を利かせてくれたのだろう…パーティで僕の席はハラルドの隣に用意されていた。ハラルドとの会話はいつも「体調はあいかわらずよくない…。」という言葉から始まる。僕も「耳鳴りが酷い…。」とか言う不健康話で最近は会話の糸口を見つけられるようになった。ハラルドと親しく話をするのは2007年にレイキャヴィークで開かれた学会以来だったので、ウップサーラで取り組んでいる話をした。ハラルドの専門は16〜18世紀までと範囲が広い。僕は複合国家の統合軸としてのゴート主義の創造とそれに基づいた18世紀以降のスウェーデン観の変化という『リネーの帝国』構想を語り、「政治史と文化史、17世紀と18世紀がうまく融合できないかと考えている。」と伝える。ハラルドも酒が入って気分が高揚していたのだろう…「リネーの事績はスウェーデン基準というよりは、世界基準だから、そのあたり注意するように。」とか、短い時間にもかかわらずブラブラっとアドヴァイスももらえた。酒は入ったものの、これも一つの研究交流の形と言えるだろう。

それにしても、こちらのパーティーで耳にするスピーチは、どれをとっても知的な言葉のなかにユーモアのセンスが溢れていて楽しいものばかりだ。退屈なんて考えられない。一次会のパーティーは4時間くらい続いたと思うけれども、あっという間に時間は過ぎ去ってしまう。で、ユーテボリ大学のマーティンが「これからSOLcentrumで二次会!」というので、「ん…SOLって何?僕は知らんぞ。」と思いながらも、ルンド大学図書館1号館(UB1)の裏手まで彼らについていく。SOLとはSpråk- och litteraturcentrum(言語文学研究センター)の略称で、僕がルンド大学にいた頃にはまだなかった組織…なんとなくそのミッションは阪大世界言語研究センターに近い感じで好感を持つ。

SOLのキッチンで深夜の3時近くまで、あれやこれや…と話が盛り上がった。僕は、思想史が専門のマーティンと…フーコーがどう、アドルノがどう、ハーバーマスがどう…と珍しくお互いに影響を受けた思想家の話を続けた。洋の東西の違いはあれ、言葉の違いはあれ、読んでるもの、影響をうけたものは確かに一緒なのだけれども、(…正直に告白して…)日本語翻訳で知った外国の言説をどう外国語で再び伝えるかという本末転倒な作業は酔った頭には大変な作業だった。

深夜にはSOLでのルースベの二次会パーティを用意していたSOL関係者ともすっかり打ち解けていたのだけれども…いったいどれだけの酒をみんなで消費したというのだろう…キッチンのテーブルは空き缶・空き瓶だらけだったにもかかわらず、僕の耳が確かならば、「朝には掃除の人が来て片付けてくれるから帰ろう…。」とかなんとかで、まんま「宴の後」状態でホテルに帰った。

昼に歴史学部でミーアと話していたときも、夜にSOLでマーティンと話していたときも、日本とスウェーデンの歴史学者の間による研究交流のことを真剣に話した。かつてのルンドの友人たちも、今はそれぞれが職をもっているので、ときにはお金の絡む協力話も多くなってきている。例えば、冷戦研究をしているミーアの場合には、「日本における冷戦研究の研究センターはどこなの?」とか、東西の国際交渉研究を進めようとしているユーテボリにいるマーティンの場合には、「ステファン(…かつてルンドで僕に研究室を貸してくれた人物で現代インドネシア史が専門…)がユーテボリで近世以降の東西交流で共同研究を進めようとしているけれど、誰にコンタクトすれば良い?」とか聞かれる。

そうした研究交流の話を受けた場合、僕がいつも困ってしまうのは日本には歴史学研究センターのような研究機関がないことだ。日本には、北大のスラヴ研究センターや東京外大のアジア・アフリカ研究センター、東大のアメリカ太平洋地域研究センターのように、地域研究という名目で分野横断的に当該地域の分析を進める研究センターがあって、それらは各々が特徴のある研究を実現していることを僕は認める。これに対してスウェーデンの場合、○○大学歴史学研究所に様々な時代・地域を歴史学という手法で研究する者が寄り集まっていて、例えば「冷戦」という歴史学上の方法概念を用いて共同研究を進めようとする場合、ヨーロッパ・アメリカ・アジアなど、対象とする地域の違いはあれ、歴史学上の方法概念を共有する研究者が集まって共同研究を構築する。彼らは、そうした歴史学上の方法概念・問題設定に従って研究交流の如何を僕に尋ねてくるが…僕はといえば、例えば…「日本でも「冷戦」という歴史概念は一般的であって研究者は多くいるけれど、そうした研究者は一カ所の研究組織に集まるのではなく、複数の大学に個人として散らばってしまっている。とはいえ、そうした研究者を束ねる研究会や学会のような組織はあるから、そうした組織にコンタクトをとるのが共同研究への近道だね。」と答えるしかない。日本の歴史学界が世界の歴史学者と質的にも量的にも実のある研究交流を実現させたいならば、国際的な歴史学界において標準とされている組織体系をもった研究組織を日本における「受け皿」として…一つぐらいは持つべきではないかと…ルンドの友人たちと語るたびに僕はいつも思う。

長々と書き連ねてきたけれど、今回の発言はたったの数時間でウップサーラへとんぼ返りしてしまったルンド滞在の話。とにかく、「ルースベ、おめでとう!」

2009年5月19日 (火)

スウェーデン的「危険物」

先週、日本から旧ユーゴ研究をしている同僚がバルカン訪問の前にスウェーデンを訪れてくれた。彼は同僚のなかでも数少ない『スタートレック』仲間なので、まだ日本では未公開の『スタートレック』を見にいったり、今一度初心にかえってウップサーラ・ストックホルムの歴史的名所を案内したりした。(『スタートレック』については日本未公開だから詳細は控えるけれど…ただ一言だけ。最後の終わり方は長年『スタートレック』を愛好してきた人には感涙ものだと思う。少なくとも僕は最後のシーンからエンドロールへの流れだけでも100SEKを払った甲斐があったと思っている。)

今回はそのストックホルム案内で見つけた「危険物」の話。日本人から見ると、スウェーデンには「これはバイオ・テロに匹敵するのではないか?」と思わせるような不味い食べ物がある。最近は日本でも入手できるようになった激しい臭気をもつシュールストロミング(発酵鰊)や「世界一不味い菓子」との異名をとる塩ラクリスはその代表だろう。個人的には、昨春ストックホルムに滞在した際に入手したKalles kavier(…スウェーデン語でキャヴィアは「魚卵」を意味する…)の「シマシマ・バナナ味」と名のついたバナナ味のタラコ・ペーストもその一つとして挙げられる。今回のウップサーラ滞在でこのバナナ味のタラコ・ペーストを探しているのだが、どの店に行っても見つけることはできない。たぶんスウェーデン人自身も、その不味さに気がついてしまったのだろう。

090516i_2 先週、僕はそうした「危険物」をストックホルムのノベル博物館で見つけた。ここで最初にご覧頂く写真はノベル賞のメダルを象ったメダル・チョコレート。これは、昨年のノベル物理学賞受賞者である京大名誉教授の益川先生がスウェーデン土産として大量に購入したことが報道されて以来、ストックホルムを訪れる日本人観光客の間でダントツ人気の代物である。このメダル・チョコレートはストックホルムのガムラ・スタンにある(…かの「ストックホルムの血浴」の現場になった大広場に面している…)ノベル博物館でしか購入することができない。先週のストックホルム滞在は日本から訪れてくれた同僚を案内することが目的だったが、個人的にはこれを機会に是非このメダル・チョコレートを入手しようと、ついでにノベル博物館を訪れたのである。(…ノベル博物館自体は、ノベルの有名な遺言状の現物をのぞけば、展示はあまりおもしろくない…。)

090516m メダル・チョコレートは全く「危険物」ではない。その味は、可もなく不可もなくといったところ。さて問題の「危険物」は次にご覧頂く写真に写っている物…その名もダイナマイト・ポルカグリース(…パッケージには、エクストラ・ダイナマイトとある…)。ポルカグリースは、スウェーデン人が好んで食す駄菓子(…その総称をスウェーデン語ではgodis(ゴディス)と呼ぶ。日本語版wikipediaではゴディスがキャンディーとされていて、しかもキャンディーが見出し語にもなっているが、キャンディーはゴディスの一部に過ぎず、この点でwikipediaは重大な間違いを犯している。たぶん日本語版wikipediaでスウェーデンのことをよく執筆されていらっしゃる方のなかには、このブログもご覧になられている方もおられると思うので、是非修正をお願いしたい…。)の一つで、堅い棒状のキャンディーである。通常のポルカグリースは桃色と白色の外観で濃厚な甘味をもつ。スウェーデン版の千歳飴といった感じだ。そもそもこのキャンディーの堅さと、溶け出したら歯の詰め物も剝がれるほどの粘着性から、通常のポルカグリース自体が「危険」な駄菓子といえる。しかしここにご覧頂くダイナマイト・ポルカグリースは…甘いだけのポルカグリースとはまさに「ひと味」違う。その一欠片を口に含むと最初のうちは甘いのだが…やがて辛さが口の中に充満し…通常の味覚をもった人間なら激しい不味さしか残らない。

このダイナマイト・ポルカグリース。紙パッケージは、かつてノベル自身が起こしたニトログリセリン株式会社の製造していたダイナマイトの包装紙を模している。そこに記載している原材料を調べてみたら…さすがにニトログリセリンは含まれていないものの…唐辛子のなかでも強い辛みが特徴であるパラペーニョが含まれていた。おそらくこのダイナマイト・ポルカグリースの企画に携わったスウェーデン人たちは、ダイナマイトの爆発力を味で再現しようとして、結果を考慮することなく安易にパラペーニョを混ぜたのではないか…。その結果、確かにその不味さは、ダイナマイト級となった。僕はこのダイナマイト・ポルカグリースをウップサーラにいる家族にストックホルム土産として買ってきた。けれど子供たちはすぐにはき出す始末で、今現在購入者である僕が自ら責任をとって消費中である。

スウェーデンは武器輸出国としても世界にその名が知られているが、まさか…人類の味覚を崩壊させるという新たなバイオ・テロ用の武器として、激しく不味い食べ物をあれこれと開発してるんじゃないよね〜(冗談、冗談…そもそも美味い物じゃなければ世界に普及しないわけだから、そんなテロ戦術は成立しない。)いずれにせよ、このダイナマイト・ポルカグリースは、日本の食をめぐる安全保障上大変な「危険物」と判断したため、僕は土産物として持ち込まないことを決めたので悪しからず。

2009年5月12日 (火)

Mycket naturのなかで思う

先週、僕は、ストックホルム在住の日本人研究者のご家族とともに、森の墓地・ビルカと二つの世界遺産を巡った。森の墓地とビルカがどのような意味をもって世界遺産に登録されたものかは、様々なメディアで公にされているガイドをご覧になって頂ければよい。実のところ僕は両者とも今回はじめて訪れた。

僕はかつて両方とも『世界遺産』のテレビ番組作りに協力させてもらったことがあり、森の墓地が現代北欧建築の先駆者とされるアスプルンドのライフワークとなった場所だとか、ビルカが(対岸のホーブゴーデンとともに)ウップサーラ王権によるガムラ・ウップサーラやシグトゥーナなどへの活動拠点の移動以前にあったヴァイキング活動の拠点(そして聖アンスガールによるスウェーデンへのキリスト教布教の起点)だとかいった、百科事典的な知識をそれなりにもっていた。だからはじめは…「森の火葬場、森の礼拝堂、復活の礼拝堂…をめぐればいいだろう」、「ビルカの博物館を見て、聖アンスガールの十字架を目指せばいいだろう」…と思いながら歩いていた。けれど、僕はエンシェーデの森とビョルク島の「溢れる自然」(mycket natur)のなかを散策しながら、百科事典的な知識に基づいたそうした歩き方は建造物などのメルクマールを目指すものとなり、「点」を知るにとどまることにふと気がついた。

森の墓地にせよ、ビルカにせよ、総延長では2kmもないような距離の散策路が域内に巡らされていて、僕らはこの時期ならば新緑あふれる自然のなかを散策することになり、結果、僕らは広く「面」としてその地を経験することになる。森の墓地は公営墓地だから一年中開放されているが、ビルカは夏の間しかストックホルムからの渡し船が通っておらず訪れることができない。それゆえ、まさに緑あふれる自然のなかでの散策を目的に開放されているとも言える。「溢れる自然」を巡る散策路が無秩序にあるのかと言えば、そうではない。例えば森の墓地の場合には、アスプルンドと友人のレヴェレンツが綿密に礼拝堂・火葬場・墓地を結ぶ墓地全体のプランを構想している。森の礼拝堂や聖十字架礼拝堂で葬儀を終えた後、森の火葬場で荼毘に付された人は、「追憶の木立」と同義の匿名墓地から鬱蒼とした森のなかをまっすぐと走る七つの泉の小道を抜け、その先に復活の礼拝堂が待っているというプランだ。そこを訪れる僕たちもまた、そのプランに従って、森の墓地に「溢れる自然」を追体験することになる。

Minneslund Hill_and_ploughed_field_near_dres_2 森の墓地にあっては、アスプルンドやレヴェレンツが例えば19世紀前半の(ドイツ・ロマン派というよりは)バルト海世界を代表するフリードリヒの描いた自然風景の影響を強く受けている。例えば、左の写真は森の墓地にある瞑想の木立で、右の絵画はフリードリヒによる『ドレスデン近郊の丘と耕地』。この瞑想の木立のプランを構想したのはレヴェレンツとされていて、森の墓地にある復活の礼拝堂を見てもわかるように、彼は一般的にはギリシア・ローマの古典に学ぶ新古典主義様式の建築家と言われる。けれども、スウェーデン統治下のグライフスヴァルトに生まれ育ったフリードリヒの描く風景を森の墓地に再現しようとしていたのである。(北ドイツのバルト海沿岸にある大学都市グライフスヴァルトはナポレオン戦争までスウェーデン領だった。何をもって「○○人の画家」の「○○」を決めるのか…その基準はいろいろだと思うが、もし生まれたときの国ということになればフリードリヒは「スウェーデンの画家」となる。)世界観叙述の古典的論法を横領して独自様式に発展させる「本歌取り」的方法は、スウェーデン文化の構造を理解するときに重要だけれども、森の墓地はいわばバルト海世界に生きた人々に共有された自然観を反映させたものであり、その自然観に応じた散策路のプランが練られているのだとも言えよう。

ビルカについても、今そこを散策する人のどれくらいがかつてのヴァイキング時代の歴史的事実を理解しながら散策しているかは疑問だ。船着き場にはじまり、博物館や復元家屋を横目に見て、聖アンスガールの十字架を目指し、リンベルトの記録によればビルカが焼失した結果、土壌が炭化したため名付けられた「黒い地」を抜け、聖アンスガール礼拝堂と数少ないビルカの民家をたどり、再びストックホルムへ戻る船着き場へと帰る。確かに、「点」としてはヴァイキング時代に由来するメルクマールを辿るルートだが、しかしビルカの場合にはほとんど往事を思わせる建造物の類は残されていない。おそらく「世界遺産だから!」と喜び勇んでビルカに渡った日本人は、何も残されていない現場を見て落胆する人が多いだろう。しかしストックホルム市庁舎脇の船着き場から渡し船、ビルカの散策路をともにしたスウェーデン人たちを見ていると、ヴァイキング時代の遺構を結ぶルートを辿りつつも、ヴァイキング時代の歴史を求めてビルカに渡るというよりは、普段着のままで新緑の芽吹いた「溢れる自然」を求めて散策しているように見える。

意識的か、無意識的かはわからないが、スウェーデン人たちは、ある計画性に基づきつつ「溢れる自然」に接する傾向がある。そんなスウェーデン人たちの「自然」に対する態度を感じたとき、僕は「軍事国家」としての近世スウェーデン国家の論じ方にちょっとした補強が必要なのではないかと思うようなった。厳しい国土ゆえ効率的に資源動員を求めたという点に違いはない。そうしたスウェーデン国家観に補強が必要だと僕が思うのは、おそらくそうした「資源動員」を下支えする概念的基盤としてスウェーデン人に独特な「自然」観があるのだろうという点だ。おそらく近世以降のスウェーデンの政治文化を担った知識人たちは、多かれ少なかれ、そうした観点からスウェーデンの「自然」をデザインしてきたのではないか?例えば、大北方戦争の敗戦後、バルト海世界における軍事的覇権が失われた後の啓蒙期に生きたリネーらの「自然」をめぐる言説は、スウェーデン国家再編期にあって「スウェーデンとは何か?」という問いかけに決定的な役割を果たしたと思う。研究者としての僕も与するこれまでの近世スウェーデン国家研究は制度的側面に着目して「軍事国家」だとか「複合国家」だとかを論じてきた傾向があるが、おそらくそうした近世国家の制度を近世スウェーデンに生きた人々の文脈に即して理解するには、もうワンクッション…そうした制度を構想する際に発想の基盤として意識的・無意識的に機能する理念(…この発言の場合は「溢れる自然」という理念…)をも射程にいれねばならないのではないか…と、僕はスウェーデンの「溢れる自然」のなかで思った。

(そんな見方を簡単な事例に応用してみると、例えば、オリエンテーリングというスポーツ競技は、軍事的側面からよく「斥候教練を目的としてスウェーデンで始められた」と説明されるけれども、この競技のスウェーデンにおけるポピュラリティは、「斥候教練」といった制度的側面によって支持されたのではなく、それがスポーツ競技としてのルールという計画性をもって「溢れる自然」を散策するというスウェーデン人の自然に対する接し方によくよく合致したから支持されたと考えるべきだろうね。)

2009年5月 9日 (土)

長寿と繁栄を

原典回帰の話の続きではないけれど、"Star Trek"の11作目にあたる映画がアメリカと同日の昨日、スウェーデンでも封切られた。すでに話題になっているように、今回の作品は、カーク船長やスポックらが活躍した『宇宙大作戦』(The Original Story, TOS)への原典回帰で、登場人物はお馴染みの面々なれども、俳優陣を一新して若き日のカーク船長やスポックらの話が描かれている…らしい。スウェーデンでも、今作品で監督を務めたJ.J.Abramsのインタビュー記事などが新聞に掲載されていた。最近流行りのアメリカのTVドラマ『HEROES』で殺人鬼役を演じて注目を浴びているZachary Quintoは、まさにスポックそのもの…とか、スウェーデンでも前評判は高い。スタートレックはTOSにせよ、TNG(The Next Generation)にせよ、少年時代の僕が新しい技術や異文化接触に夢を抱いた原典的SF作品。単なる勧善懲悪なドンパチものじゃないんだな…。例えば技術的進歩に格差のある者が接触した場合どのような交渉が図られるかなど、過去の歴史的事例に鑑みた未来の描出があるから、とても興味をもった。劇中に登場する小道具Communicator(…実際に僕らの使っている携帯電話を開発した技術者たちの想像力の源となった小道具…)みたいなiPhoneを片手に、誰も訪れたことのないような書庫に足を踏み入れると、頭のなかではA. Courageのイントロとともに、"Space…the final frontier…"なんて言葉がよぎったりする…たまにはね(笑)。"…to boldly go where no man has gone before..."っていうフレーズは、正直今でも良いなと思う。日本での公開はあと三週間ほど先。スウェーデンで一足先に見てこようかどうか迷うところ。とまれ、みなさん…Live long and prosper !

(映画までは取り急ぎTOSのオープニングをご覧下さい。)

       

2009年5月 8日 (金)

モードの切り換え

(先の発言が長くなったので、別項を立てました。)Erasmus Mundusの授業を乗り切った僕は、灰色の脳細胞のモードを教育から研究へと完全に切り換えている。こちらでの研究活動は、かつてこのブログでぶちあげた「リンネの帝国」にむけた作業に集中している。とりわけ先月来、大北方戦争以降の啓蒙期における帝国再編の理念的過程を追う目的で、ウップサーラを中心に活躍した知識人の歴史叙述と地理叙述に着目し、この時期における一般的「スウェーデン」理解と人的・物的資源を準備するスカンディナヴィア理解がどう結びついているのかを、あれこれと考えている。

(資源供給の母体はスカンディナヴィアの自然環境だが、その把握方法は現在の我々のものとは著しく異なり、大北方戦争の敗北以降、「スウェーデン」再建という目的に意識的・無意識的に結びつけられながら、「語られている」…ように僕は思っている。近世における伝統的な「スウェーデン」理解の代表例が、ウップサーラの場合にはゴート主義だけれども、「ゴートの末裔に神が与えた楽園」を根拠づける目的でスカンディナヴィア叙述が用意されている…ように僕は思っている。理念的には、「スウェーデン」民族の特殊性を主張するための叙述戦略として意図的なスカンディナヴィア叙述が用意されている現実的な背景には、大北方戦争以降の国家再建の過程で経済資源の基盤を理解するという目的があった…ように僕は思っている…。)

そのようなことを考えるなかで、2年前から僕は同僚と「近世ヨーロッパ周縁世界における「帝国」再編」というテーマで科研を進めていて、スペイン継承戦争・大北方戦争以降のスペインとスウェーデンの再編過程を比較してもいる。ここのところ、その科研の知見を踏まえるならば、「リンネの帝国」では、スウェーデンの地平からスウェーデンを語るだけではなく、他者の視線からスウェーデンがいかに語られていることも触れるべきじゃないか…という思いを募らせるようになった。というのも、ウップサーラで手にする資料のなかには、宗教的枠組みを超えた啓蒙期におけるスペインとスウェーデンとの間の交流を裏付けるものがあり、対他知のなかに浮かび上がる「スウェーデン」像を明らかにできるのではいかと思っているからだ。例えば、昨日授業を終えて読み耽っていた資料も、そうしたものだった。

例えば、リネーの弟子を通じてスペイン(…無論、アメリカ植民地も含む…)もまたリネー学派の世界叙述のなかに含まれている。イベリア半島へはP. ルーフリングという弟子が渡った。彼はラテン・アメリカへの探検事業を企て、27歳の若さでヴェネズエラで死んだ。公的にリネーのウップサーラ大学における地位を引き継いでいくのは(小リネーを介して)テューンベリになるのだけれど、ルーフリングはリネーの最もお気に入りの弟子とされ、リネーは"Iter Hispanicum(スペイン旅行記)"として最愛の弟子の記録を自ら編纂、出版したほどだ。また、スウェーデンに蓄えられた知見は、スペインで言えばカルロス3世の啓蒙専制期における改革事業にも活かされている。改革事業を主導したカンポマーネスらは、国内産業の振興を図る目的で、各地に"Real Sociedad ○○ de Amigos del País(…○○祖国の友経済協会…Paísの訳は祖国で良いのかな?…○○地方経済同友会かな?…)"という団体の創設を後援したが、近代以降、鉄鋼生産で知られることになるバスク地方に創設された祖国の友経済協会では、(…富国強兵・殖産興業ではないけれども…)軍事力再建をも目的に、鉄を活かしたスウェーデンにおける軍需産業の知見を導入して産業振興が図られた…らしい。

こうした啓蒙期スペインにおけるスウェーデン受容のあり方を見るならば、スウェーデンが単なる北方のプロテスタントの小国としてとらえられていたのではなく、少なくとも博物学と軍事技術の面で一目置かれていた姿をあぶり出せる…と思わない?ただしスペインとスウェーデンとの関係においては、ゴート主義が媒介する近親関係を無視するわけにはいかないだろう。そもそも、P. ルーフリングの件も、バスク祖国の友経済協会の件も、僕が近世ヨーロッパにおけるゴート主義の展開を追うなかで知り得た事例なのだから。先月のSystembolagetについての発言でも書いたことだが、ここウップサーラでの物思いは不思議と「世界」をめぐるものとなる。(…自由な時間があるから、妄想癖がぶりかえしたのだろう…と突っ込まないよ〜に。)

Erasmus Mundusの精神

Euro_cultureいよいよスウェーデンでも新型インフルエンザへの感染者が見つかった昨日、僕は、ウップサーラ大学での連続講義の最終回を無事に終えた。最終回はいつもと教室が異なり学生も、僕も混乱したけれど、終わりよければすべてよし…話すべき内容もすべて話し終え、爽快感の残る終え方を迎えた。最後の回のテーマは、「日本におけるスウェーデン・イメージの歴史的形成」についてだったから、僕が話しを終えた後には、受講生たちの出身国におけるスウェーデン・イメージはどうなのかについて討議した。

修士課程レベルの大学院生が各学期ごとにいくつかのヨーロッパ諸国の大学を巡りながら学業を修めるEuro CultureというErasmus Mundusの教育プログラムは、これに参加する学生たちにとっては、ヨーロッパ各国の大学で行われている様々な領域の授業を受講できる(…だから受講生の専門は様々である…)という点で大きなメリットがある。さらに、授業を運営する教員にとってみても、これに参加する学生たちの出自が様々だから、例えばスウェーデン・イメージを議論の種としながら、「うちではこんなんだけど、あんたんとこはどう?」…なんて感じで、分野横断的・地域横断的に討議を盛り上げることができる点、メリットは大きい。

教員はただ漫然と自分の研究の一端を授業で公開すれば良いというわけではない。授業の盛り上げ方にはもちろん工夫が必要だ。ものすごく当たり前すぎる話で気恥ずかしいくらいだけれども、それは洋の東西を問わず同じこと。今回の僕の講義の場合には、前半戦でスウェーデンにおける日本・イメージの形成、後半戦で日本におけるスウェーデン・イメージの形成という話だったから、受講生それぞれの出身国で形作られている定型的「日本・イメージ」や「スウェーデン・イメージ」と比較することができ、理解しやすかったのだろうと思う。いまだに信じられないことだが、この授業を終える度に頂いた拍手の理由はおそらくそんなところにあったのだろうと、今は考えている。母国語の通用しない相手と対峙することで、あらためて日本の歴史をどう伝えるべきか、そして僕の専門であるスウェーデンの歴史をどう伝えるべきかを深く考え、自分の原点に回帰する機会にもなったということでErasmusu Mundusはよい経験となった。国境を越えた文芸共和国的な雰囲気のなかで原点回帰という人文主義の精神を知る…なるほどこのプログラムがエラスムスの名前を冠している理由は、そんなところにあるのかも知れない…ね(笑)。

(ここに紹介する写真は、最終回の授業をお開きにしちゃった後、「お茶しにいこう!」ってことで残っていた人と撮影された写真。授業の最初にでも、みんなと撮影しておけばよかった。)

2009年5月 4日 (月)

再びプロフィールの写真を替えました

ウップサーラでの滞在もあっという間に一ヶ月が過ぎた。4回予定されているこちらの講義も3回目を盛況のうちに終了。公務は誠に順風満帆。しかし生活上、想定外の問題に一つ出くわした。それは初夏を思わせる強い陽射しが生み出す問題である。気温は数値上それほど高くないが、晴天下で得られる暑さの感覚は結構厳しい。しかし日が陰り出したり、風が吹いたりすると、結構寒い。とにかく陽射しが強く、石畳の照り返しもあって目を全く開けられないほどで、これには参った。妻から陽射しに耐えられなくなったのは、眼の老化現象だと指摘されたが、どうなのだろう?確かに今回のウップサーラ滞在では体の無理が利かず、体の変調が激しい。

そのような感じだから、急遽日本でもお馴染みになったH&Mに出向いて、暑い日むけに夏服、防寒用にストール、陽射し対策にサングラスを購入した。(サングラスはこちらの人の頭骨にあわせて作られているから、鼻に引っかけるのがちょっと大変。)H&Mで買い物をするのは8年前にルンドに留学して以来のこと。H&Mの品質はあいもかわらずで、デザインは…良いんだか、悪いんだか…で中途半端、縫製はいい加減なところも見受けられる。変わった点といえば、服のタグに日本語表記が入ったことくらいかな。H&Mをはじめ、最近の衣料業界は格安の商品をどんどん回転させていくのが流行りらしく、ちょっと気に入ったものがあればすぐに買わなければ、明日にはなくなってしまう可能性も大きい。(こうした風潮のおかげで、ゴミに出される衣服の量が相当増えているらしい。)ストールとサングラスはかなり安かったにもかかわらず、重宝している。で、先月替えたばかりのプロフィールの写真について、一部「寒々しい」とご意見を頂戴したので、一昨日にウップサーラにあるリネー庭園(リネー博物館も併設)に赴いたときに撮影された写真に再び変更。H&M製品で身を固めた僕。シャツ、ストール、サングラスの総計は5000円とかかっていない…(笑)。

090502f この写真が撮影されたリネー庭園は、もとはといえば、ゴート主義を体系化した大リュードベックが1655年に薬草園などを兼ねて造成したもの。その後この庭園は歴代のウップサーラ大学医学教授の管理下にあり、小リュードベック(リュードベックの子供)、リネー、小リネー(リネーの子供)、テューンベリと引き継がれた。あたかもゴート主義の系譜を見るかのようだ。このブログでは何度も触れているけれども、テューンベリは18世紀後半に日本へも来訪したことのある人物。現在リネー博物館となっている建物は、1743年〜78年までリネーのウップサーラにおける邸宅兼研究施設とされた建物であり、ここにスウェーデンはもとよりヨーロッパ中からリネーの学識に私淑する者たちが訪れ、また世界中に赴いた彼の弟子から寄せられる動植物の標本が集められた。リネー自身が名付け、分類した動植物は100万点以上にのぼると言われているけれども、いわばこの建物がリネーによる「天地創造」の拠点だったとも言える。若き日のテューンベリもきっとこの邸宅を訪れてリネーの教えを受けたのだろうし、日本からのテューンベリの書簡を晩年のリネーはここで読み耽ったのだろうと思うと…万感こみ上げてくるものがある。

(ちなみにこのリネーの邸宅は、厳密に言えばウップサーラ大学に付属するこの庭園の管理を任された医学教授の邸宅だったのだけれども、19世紀以降はウップサーラ大学の音楽監督の住まう邸宅となった。つまり20世紀初頭で言えば、「夏至祭の夜明かし」で有名な作曲家アルヴェーンがここに住んでいたということになる。)

2009年5月 2日 (土)

ウップサーラの春のなが〜い一日


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4月30日は、スウェーデン(というかゲルマン圏)の暦で言えば、「ヴァルプルギスの夜」(スウェーデン語ではValborgと略す)の日。長い冬を終え森に閉ざされた地にようやく訪れた春を祝う祭りである。ゲルマン圏では、おおよそ5月1日に祝われる五月祭の前夜祭として4月30日の晩にかがり火が焚かれる。ローマ・カトリックでは5月1日がイングランド出身の聖ワルブルガの日とされてきたが、これはキリスト教が伝来する以前のゲルマン圏で春の到来と生命の息吹を祝った五月祭にかぶせられたと推測されており、さらにはキリスト教の伝来以前より五月祭の前夜祭として火祭りが行われていたとも考えられている。長い冬の闇に閉ざされた森の世界にだんだんと春が訪れると、魑魅魍魎の活動も活発になる。そこで、生を祝う五月祭を迎える前日に、あらためてかがり火を焚くことで魑魅魍魎の世界と人間の世界を区分したというのが、ヴァルプルギスの夜の起源に関する一般的な説明である。この時期になると冬眠から醒めた獣たちの活動も活発になるから、かがり火は実際のところ人間の生活圏を守るという機能も有していたのだろう。僕は、この祭がそうした一年の季節のリズムに応じた生活習慣の反照だと常々考えている。

今回のウップサーラ滞在で僕はこの祭をウップサーラ郊外のガムラ・ウップサーラで体験した。ガムラ・ウップサーラとは「古ウップサーラ」という意味で、もともとウップサーラと呼ばれていた土地である。(現在のウップサーラは、メーラレン湖からフューリス川を遡上しガムラ・ウップサーラへと至る道程にあって上陸拠点となった地であり、「東のアーロス」と呼ばれていた。ちなみに「西のアーロス」が現在のヴェステルオースである。)ガムラ・ウップサーラは、キリスト教流入以前のスウェーデンにあって政治と信仰の中心に位置する地であり、「ウップサーラの王」という呼称こそがかつてはスウェーデンの王そのものを指し、スウェーデン全土から出席者を招いた民会もここで開催されていた。今は12世紀半ばに最初に大司教座の置かれたガムラ・ウップサーラ教会(現在のウップサーラ大聖堂ではない)と幾人かのスウェーデン王の王墓と伝えられている塚が残されている。そんなキリスト教流入以前のスウェーデンの雰囲気の残る場所で、古いゲルマン文化の縁を今に伝えるヴァルプルギスの夜のかがり火を僕は見た。一枚目の写真は、ガムラ・ウップサーラの墳墓群に囲まれたワルプルギスのかがり火の写真である。

さて、一般的に言って4月30日はそうした五月祭の前夜祭としてかがり火が焚かれる日として知られているものの、かつてスウェーデン王権を頂点としてバルト海世界に築かれた広域支配圏に属した地域(…スウェーデン、フィンランド、エストニアなど…)で、大学のある町(…スウェーデンならウップサーラ、ルンドなど、フィンランドならヘルシンキなど、エストニアならタルトゥ…)においては、この日は学生祭の日ともなっている。この日ばかりは、朝から学生たちは酒(…伝統に従えばシャンパンだが、今はビールも、ワインも、アクアヴィットも、なんでもあり…)を飲み、一日中乱痴気騒ぎを町中で繰り広げる。スウェーデンは5月1日は五月祭としてではなく、労働者の祝日とされているが、大学町で生活していると、あたかも5月1日の祝日は4月30日の学生祭の疲れを癒す休日として設定されているのではないか…と思えるほど、4月30日の乱痴気騒ぎは激しい。4月30日の学生祭の祝い方(…それは「大学生の時代」とも呼びうる19世紀に形作られたものだけれども…)は、スウェーデンの場合、例えばウップサーラはウップサーラの伝統的方式、ルンドはルンドの伝統的方式…といったように、各大学で異なる。

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ウップサーラの場合には、朝7時頃から「シャンパンの朝食」といってシャンパンを飲みながらの朝食が振る舞われる。町中にメーラレン湖へと流れ込むフューリス川が流れるウップサーラの場合には、朝10時から学生たちによる筏下りが催される。ウップサーラ中心街に流れ込んむフューリス川は、17世紀頃(かのゴート主義で知られるリュードベックの発案とも言われているが)水車小屋と堰が設けられた。この堰下りが、手製の筏下りでの一つの見所とされている。ウップサーラの市民たちも酒を片手にフューリス川のほとりに大勢詰めかけ、ビールやシャンパンなどを…男女関係なくラッパ飲みし、野次とゴミを飛ばしながら筏下りを観戦する。それが終わると、ニシンをメインとした昼食をとる…もちろんシャンパンを飲みながら。午後3時になると、すっかり酔いのまわった学生と市民たちは大学図書館Carolina rediviva前の広場に集まり、redivivaの二階テラスに登壇したウップサーラ大学総長自らが学生帽を手にとって振るのとあわせて、自らの学生帽を振り合う「儀式」が催される。午後3時過ぎには大学本堂内でスウェーデンで最も有名な(…かつてかの作曲家H.アルヴェーンが指揮していたこともある…合唱好きな人ならE.エリクソンが長らく指揮をしていたと言ったほうがわかりやすかな…)Orphei Drängarが、学生歌として歌い継がれてきた様々な春の歌を披露し、中に入れない学生や市民たちも本堂前の広場(…かの国民主義的歴史学の父E.G.イェイイェルの堂々たる立像のたつ…)でスピーカを通じて流れる歌を共に楽しむ。その間、学生たちは、自らの属するナショーン(…学生の出身地域ごとに結成されている団体…)の建物で、シャンパン・ファイトやダンス・パーティーに狂ったように興じる。午後9時頃にはウップサーラ城のグニッラ時計と呼ばれているの時計の側で各ナショーンから選ばれた学生たちが春の演説会を行い、ようやく午後10時頃になって「6時の食事」と名前のついている夕食会が各ナショーンではじまり、宴は延々と夜中まで続く。

二枚目の写真は、午後3時過ぎに大学本堂前の広場で春の歌の合唱を聞く学生や市民たちの姿。左側に立つ像は、19世紀初頭にあって「ゴート協会」を主催し、『スウェーデン国民の歴史』を記したことで知られるスウェーデン国民主義歴史学の父イェイイェルの像。そしてイェイイェルの視線の先(…この写真では左奥に見える建物…)が、かつてイェイイェル自身も教授を務めたウップサーラ大学歴史学部の建物。この写真の右には、17世紀に建てられゴート主義を体系化したO.リュードベックが解剖実験などを公開したことでも知られる、かつての大学講堂グスタヴィアヌムが写っている。そして、そのさらに奥にはスウェーデン最大のゴシック式教会であり、福音主義スウェーデン教会の総本山であるウップサーラ大聖堂が写っている。つまり、この写真が撮影されたウップサーラ大学本堂前の場所には、福音主義・ゴート主義・国民主義…とスウェーデンの地に生きた様々な出自の人々を「国民」としてまとめあげた統合理念が一カ所に集約されている。そんな場所に4月30日の午後には、こうしてスウェーデン「国民」が大挙して押し寄せ、春の歌に耳を傾ける。

(この発言のタイトルにもあるように「なが〜い一日」の話は、まだまだ「なが〜く」続きます!。せっかくの機会ですから、休憩がてら、スウェーデンの春の歌のなかでも最も有名な…春の歌といえば必ず最初に歌われる"Vintern rasat ut!"(冬は過ぎ去った!)を紹介。Orphei Drängarの録音があれば良かったのだけれどもYoutubeにはなかったので、毎年この時期になると僕が箕面の研究室で愛聴しているルンド大学学生合唱団の録音でどうぞお聞き下さい!この合唱団による春の歌のCDはBISレーベルからリリースされていますし、最近はiTunes Storeからダウンロード購入もできます。


  upsala.jpg     lund.jpg 4月30日の一日の流れは上に記した通りだが、これがスカンディナヴィア半島南端のスコーネ地方に位置するスウェーデンで二番目に古いルンド大学になると、朝食でいきなりニシンがふるまわれるし(…もともとスコーネ南岸はニシン漁で有名だった地域である…)、学生帽を振る「儀式」は、夕方の5時45分きっかりに詩人テグネール(…19世紀はじめに活躍したスウェーデン国民主義を代表する詩人でルンド大学で古典学の教授職にあった…)の銅像の建つルンド大聖堂裏手の広場で行われるなど、大きな違いがある。その差は、ウップサーラに対するルンドの対抗意識のようなものに裏付けられていると言えようか。興味深い点は、このヴァルプルギスの夜の日を境にして9月末までの「夏」の期間にのみ被られる学生帽にも、ウップサーラ大学モデルとルンド大学モデルとの間で違いが見られることだ。そもそも北欧で大学生が被る学生帽の起源は、「一なる北欧」の創出を目指したスカンディナヴィア主義が最も盛り上がっていた頃の1845年に、コペンハーゲンで開催されたスカンディナヴィア学生祭典へ出席したウップサーラ大学の学生が被ったものとされている。この学生祭典へは他の北欧の大学からも参加者があったが、その翌年以降、自らの属する大学を同定するための道具として、学生帽が普及した。それゆえ厳密に言えば、各大学の間で学生帽には違いがあることになる。(…だからスカンディナヴィア学生祭典は「一なる北欧」の雰囲気を醸し出す祭典だったけれども、そのなかでは各大学の学生が個性を主張することで、分裂の可能性をはらんでいた…とも言えるね。)ここでご覧頂く写真は、左側がウップサーラ大学モデルの学生帽、右側がルンド大学モデルの学生帽である。ウップサーラ・モデルは、白い頭頂部に膨らみがあって柔らかく、その下に黒い帯がまかれ、正面に黄色と青色の紋章が配置されている。ウップサーラ・モデルの一番の特徴は、裏地がスウェーデンの国旗のように青色と黄色の十字模様で布が織り込まれていること。これがルンド・モデルになると、白い頭頂部はウップサーラ・モデルよりも若干高みがあり堅い。帯は黒色というよりも本来紺色が一般的で、そしてなにより裏地が赤色の布である点が異なる。外見的には帽子の正面に配置された黄色と青色の紋章など、ウップサーラ・モデルもルンド・モデルも同じであるのに、目に見えない裏地の部分でかつてデンマークに属していたスコーネにあるルンド大学は、スコーネ旗の色である赤を使っているあたり、さりげない自己主張が見え隠れしていておもしろい。(というか、日本でもよく田舎の中学生たちが自己主張をしようとするときに学生服の裏地に工夫を施すけれども、外装に見る学生の自己主張の方法が洋の東西を問わずそうした裏地の利用方法に共通して見られる点は、実に興味深い。)

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最後にご覧頂く写真は、ウップサーラ大学の伝統に従って4月30日午後3時にCarolina rediviva図書館で行われる学生帽振りの「儀式」。このテラスの中央には、ウップサーラ大学総長が自らの学生帽を手にして振っている。この写真に写っているように、大抵の学生はウップサーラ・モデルの学生帽を被っている。(…だから、ここで帽子振りの「儀式」のときに、もし裏地が赤色であることがばれたら、「お前は潜りだ!」と非難されるに違いない…笑。)さらに、この写真ではredivivaの正面玄関の前にウップサーラ大学の学生たちが所属するナショーンの旗が写っている。旗をもった女子学生の威風堂々たる姿は、ヴァルハラを守るヴァルキリアを思わせる。ナショーンは、スウェーデンの大学のなかでも本来、ウップサーラとルンドにしかない学生互助団体。学生の出身地別にそれら団体は構成され、学生は自らの出身地の名前をもったナショーンに属することが義務づけられていた。(…今はそうした義務はなく、日本人の留学生でもウップサーラ大学の学生IDを持つ者ならば、希望を申し出て会費を支払えば、どのナショーンにでも所属できる。残念ながら僕はもう学生ではないので、入会していない…。)新たに加わったナショーン、廃されたナショーンもいろいろとあるけれど、おもしろいことにウップサーラでも、ルンドでも、現在大学の学生連盟に属するナショーンは両方とも13。(ちなみにナショーンのある大学はウップサーラ大学とルンド大学の他には、フィンランドのオーボ・アカデミー(現在のヘルシンキ大学)とエストニアのタルトゥ大学。ウップサーラを別とすれば、ルンド・オーボ・タルトゥの三つはスウェーデンがバルト海に広域支配圏を築いていた17世紀にスウェーデン王権によって開かれた大学だから、かつての帝国の遺伝子は各大学のナショーンに保たれているとも言える。現在のIKEAやH&Mもそうだけれど、スウェーデンという国は人々の生活文化に溶け込むソフトウェアを提供するハードウェアの世界展開が実にうまいと思う。僕は常々、そうした点こそがスウェーデンが小国でありながら世界に堂々としていられる要因ではないかと思っている。)

ナショーンはウップサーラやルンドでは学生生活の基盤となる団体で、ナショーンはそれぞれ自らの建物をもち、そこにはナショーン構成員専用のパブやレストランもあり、劇団や楽団、スポーツチームなど、文化会系・体育会系のサークルはおおよそナショーン単位で構成されている。ほとんどのナショーンは17世紀以来の歴史があり、この400年近くウップサーラやルンドの学生たちはこのナショーンとともに歴史を刻んできた。4月30日の学生祭もそうしたナショーンが主体となって作り上げられてきた伝統行事である。この日は朝から各ナショーンの建物では酒が振る舞われ、大音響で流される音楽とともにダンスパーティーが続けられている。それは、長い冬を終え春を迎えた若者のエネルギーが爆発している感じだ。「実にもったいない!」と思いながら僕は遠目で眺めていたけれども、実際、壮絶なシャンパン・ファイトとともに酒の瓶もたくさん割られ、ウップサーラの町中にあるナショーンの建物を通る度、エネルギー爆発の結果たる強烈なアルコール臭が鼻をついた。(…さすがの僕も、多くのスウェーデンの女子学生たちが朝っぱらから町中でシャンパンやワインのボトルをラッパ飲みする姿を目の当たりにしたときには…本当に参った、驚いた…。)ナショーンは19世紀以来のスウェーデンの政治・社会・文化に影響力を果たしてきた社会団体の一つと言えるけれども、なるほど今となってははるか昔のこととなってしまった革命騒ぎも、スカンディナヴィア主義の運動も、こうしたナショーンの乱痴気騒ぎの延長にあるものかと実感。そう思うと、ナショーンに支えられた4月30日の学生祭とは、ウップサーラ大学に歴史的に保たれてきた独特な政治文化の有り様が、一年に一度、飲酒の力による無礼講を通じて、目に見える形になってあらわれる希有な機会だ…と言えるね。

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