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2009年4月

2009年4月22日 (水)

研究室までのなが〜い道のり

ウップサーラ滞在も一ヶ月を過ぎ、研究・教育双方にわたって順調だからだろう、翻って日本を思うと思わず過呼吸気味になる。そんな最近の調子はさておき、気分転換に研究室までの道程を紹介。(写真はすべて妻によるもの。提供ありがとう。)

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一枚目はウップサーラ大学図書館の本館であるCarolina Rediviva。ウップサーラの中心街を北東から南西につきぬけるVaksalagatanの南西端の小高い丘の上にある。いつも歩いて登るこの丘にも、小さなクロッカスの花がそこかしこに咲き始めた。そしてこの丘を登ったの頃にウップサーラ大学五百数十年の学知の集積するこの建物がある。この建物自体は19世紀前半に建造されたもの。名前は"再建されたカロリーナ"を意味する。ウップサーラ大学はヴァーサ王朝以来スウェーデン王室の篤い保護を受け、17世紀には歴代国王の名前にちな、"Academia Carolina"と呼ばれた。17世紀はスウェーデンにおけるゴート主義がウップサーラを拠点として発展した時代でもある。ここには東ゴートのテオドリック大王のために(と言われている)ゴート語へ訳された聖書や、16世紀に編纂されたスペイン語(!)歌謡集など、ゴート関連の資料が集められた。このゴート語訳聖書は、そもそもは三十年戦争時にプラハへ侵攻したスウェーデン軍によりハプスブルク家から掠奪されたもの。「永遠なるローマを荒らすゴートの末裔」というイメージは、自ら標榜するまでもなく、そうした行為から他者によっても作り上げられたに違いない。しかしながら、Academia Carolinaの時代は、スウェーデンの「大国の時代」が幕を閉じるのと同じ頃、1702年のウップサーラの大火により終焉を迎える。この大火は、(大ルードベックによる"Atlantica"第4巻をはじめ)Academia Carolinaの図書館も焼いた。その後の啓蒙期に再建の計画が練られては頓挫を繰り返し、図書館再建は19世紀前半の"Carolina Rediviva"を待たねばならなかった。(ある意味、1世紀以上にわたって大学図書館がなかったことも驚きだけれど、)なればこそ、例えばリネーはウップサーラ大学の図書館に学ばず、彼の教授だった小ルードベックを通じてゴート主義の系譜の中枢に位置したルードベック家の蔵書と、スコーネやラップランドなどへ実際に足を運びスカンディナヴィアの自然のなかから多くを学んだ。

(19世紀前半に”再建されたカロリーナ”。19世紀前半といえば、ウップサーラの知的雰囲気を代表した歴史家イェイイェルらがゴート協会を結成して、スウェーデン・ナショナリズムを支える理念として再びゴート主義を標榜した時代だけれども、まさか「かつての大国の栄光を「再建する」」という含意まではなかったよね?講堂の前に銅像の立つイェイイェル先生、そこのところ、どうっすか?)

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次の写真は、Carolina Redivivaの裏手に広がるEngelska Parken。その名の通り、18世紀末に造成された英国式庭園なのであるが、ストックホルムにあるハーガ公園や世界遺産にも登録されているドロットニングホルム王領地の英国式庭園に比べると、まったく手入れされている雰囲気がない。スウェーデンに英国式庭園が本格的に導入されたのは18世紀後半のことと言われているから、長い伝統のある英国式庭園の歴史を振り返るならば、人工的に計画された風景を庭園に再現する風景庭園の技法が一般化した時代と思われる。一見するとただ木立が並び、その間を縫うように遊歩道が走るだけで、全く人の手の加わっているように思えないここのEngelska parkenは、そうした風景庭園の技法と意図を忠実に反映しているものかも知れない。(と、オーバーに語っているけれども、本当に雑然としきっている。)そしてこのEngelska parkenを抜けると、"Engelska parken キャンパス"と通称されるウップサーラ大学人文学センターにたどり着く。1990年代以降2000年代初頭にかけて、このキャンパスには神学部・歴史哲学部・言語学部の研究・教育施設が集められた。この写真の正面左手が神学部と歴史哲学部で教育を行う神学研究所・歴史学研究所の所属研究者の研究室が集められている建物。この建物の位置する通りは、その名もThunbergsgatan。18世紀末にオランダ東インド会社の医師として日本に来訪し、桂川甫周らにオランダ語を教え、帰国後はウップサーラ大学総長にもなったリネーの弟子シュンベリーに由来している。翻って、日本人である自分がシュンベリーの生きたウップサーラで、ヨーロッパの学生を前にスウェーデン史と日本史を結ぶ講義を行うことになるとは、因縁めいたものを感じざるをえない。ただしシュンベリーは33歳で来日し、弱冠38歳にしてウップサーラ大学総長に就任した傑物。僕は今年シュンベリーが大学総長になった38歳になるけれどもウップサーラに来たばかりの弱輩だ。(ちなみに講義室はこの写真のさらに奥まったところに広がった建物にあり、その建物には学食もある。)


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この建物は4階建て。OTIS製の新しいエレベータもあるが、僕は4階にある僕の研究室まで螺旋階段を使っている。スウェーデンでの学究生活を円滑にしたいならば、一も二もなくfikaと呼ばれるコーヒーブレイクに参加してコーヒーとおしゃべりに興じることだとは、前もこのブログで述べた。この建物でfikaするキッチンは3階の一番南側。この建物にはいくつか螺旋階段があるのだけれども、一番南側にはfikaするキッチンと4階の廊下を結ぶ(隠されたような)螺旋階段があり(その階段のあるところは外から見ると中世の城塞に見られるような物見櫓のような部分)、僕はちょっとコーヒーを飲みたくなると研究室から抜け出して、その階段を使ってキッチンにむかい、コーヒーサーバにむかう。サーバは一応"無料"だが、ひょっとすると一年のはじめには料金を徴収しているかもしれない…が知らない。キッチンには、たくさんのカップ、グラスが用意されているので、それを使って飲む。飲み終わったら、ちょっとだけ濯いで自動食器洗い機に使い終わったカップを入れておく。そうするといずれ掃除担当の人が食器を片付けておいてくれる仕組み。自動コーヒーサーバが置かれている以外は、かつてのルンドと同じ。午前10時と午後3時になるとfikaをしに、あたかも冬眠から醒めた動物がねぐらから起き出すように、研究者たちは集まってくる。私書箱は1階、コピー機とプリンタは各階にある。(しかし、4階のコピー機は運悪く故障中。)かつてルンドにいた時はコピーカードがあったが、ここではなし。研究者用のコピー機が、学生たちがまず入ってこないだろう奥まったところに用意されている。プリンタはネットワークで各端末とつながっている。ルンドでもそうだったけれども、プリンタを個人所有している人は少なく、大抵は各階に1台配置されているネットワーク・プリンタを使う。


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ようやく研究室。この研究棟の4階は屋根裏のスペースに位置する。(あたかも東大本郷の法文1/2号館のようだ。)僕の部屋にも屋根の部分に窓があって、そこから入る陽射しで十分に明るい。ルンドに滞在していたとき割り当てられた研究室は、他の研究者との共有だったが、ここでは幸いなことに個人研究室が与えられた。さらには大学のシンクライアント・システムに接続されたクライアント端末まで貸与されている。ウップサーラ大学のネットワーク環境はたいそう充実していて、様々な用途にわけて数種類のIDとパスワードが付与されている。それぞれの使い分けが唯一面倒だ。端末単位でストレージをもち、アプリケーションとデータを保存する独立したパーソナル端末を使っている研究者もいるが、ほとんどの場合、Windows Server 2003で運用されたシンクライントの端末が使われている。これだと中央のサーバにアプリケーションの管理が任されるから、勝手なアプリケーションのインストールやアンチウィルス・ソフトの入れ忘れなどもない。とはいえ僕は日本語環境を用いるので、いつもMacBook Airを持参して無線LANに接続して使っている。この写真からもわかるように研究室のドアはガラス張り。なかで何をしているのか丸見えである。ルンドに滞在したときもそうだったが、こちらでは研究室で作業をしているときはドアを開けはなって作業をし、電話などで声を出す場合にのみドアを閉めるのが一般的である。そうそう…ノートや鉛筆、ペン、付箋、ノリ…などなど、およそ研究作業に必要となる文房具の類は、私書箱の置かれた1階で、無料で配られている。(妻の話では、小学校でも文房具は無償配布だと言う。)

今回の発言で紹介した写真を撮影した昨日は、来月4歳になる娘と一緒だった。研究者が子供を研究所に連れてくる(そして子供の面倒のために研究所を留守にする)のはよくあることだけれども、ウップサーラはルンドほどではないような気がする。ルンド大学の歴史学研究所の建物では、よく子供が駆けてまわっていた。あの頃、僕には子供はいなかったけれども、今はこうして子供と一緒に研究所まで歩くようになった。子供とともに行くウップサーラでの研究室への道のりは、スウェーデンの歴史そのものの道のりとも、自分自身の人生の道のりともオーバーラップする。

2009年4月17日 (金)

Systembolagetで世界を思う

というわけで、気分爽やかに迎えた週末なので、Systembolagetがらみの話をひとつ。

スウェーデンでもっともスウェーデン的な場所は、おそらくSystembolagetの酒類小売店舗だと思う。ここで僕が言うスウェーデン的という言葉の意味は、体系化された管理システムで得られる安定ということである。

スウェーデンではおよそアルコール度数5%以上の酒類を小売店舗にて自由に販売・購入することはできず、その流通と小売はSystembolagetによって管理されている。例えば、隣国デンマークのように酒類を自由に買えないということが不自由かといえば、そうではない。スウェーデンの都市部にあるSystembolagetの店舗には、Systembolagetが買い付けた世界中の酒類が網羅的、かつ体系的に販売されている。その販売カタログは季刊発行の全体カタログに加え、最近は毎月新たに販売される酒類リストも月刊で配布されるようにもなった。ウップサーラでいえば、世界の体系だった知は、かつてウップサーラ大学にてフランス語教員を務めていたフーコーが彼の学位論文となった『狂気の歴史』を執筆するために通い詰めたことでも知られる大学総合図書館(Carolina Rediviva)に集約されていることは言うまでもない。そして、もしその次に世界の文化が集約されている場を求めようとするならば、おそらくSystembolagetになろうと僕は思う。

僕も年を取ってスウェーデン語の知識と酒の知識が増えるにつれて、スウェーデンでSystembolagetを訪れる度に新たな発見をするようになった。例えば、今回のウップサーラ滞在では、意外にもスウェーデンで、スペインのヘレス地方で生産されている酒精強化ワインであるシェリーが豊富に、しかも安く販売されていることを知った。Systembolagetで売られているシェリーは、辛口のフィーノ、酸化熟成が進み褐色がかったアモンティリャード、滑らかな口当たりで甘口のオロロソ…といったように、大抵の小売店舗の陳列棚では、辛口から甘口へとその種類別に並べて売られている。そこは生物分類の体系化を果たしたカール・フォン・リネーを生んだお国柄。彼の『自然の体系』よろしく、Systembolagetにおける酒類の陳列は、酒の世界が見事に体系化されている。そして今回、そうした様々な種類のシェリーのなかに、イングランドでは良く知られたハーヴェイ社のブリストル・クリームが、ここスウェーデンでも売られていることに気がついた。

シェークスピアが『ウィンザーの陽気な女房』のなかでファルスタッフの愛飲した酒として描いているように、シェリーはスペインのヘレス地方で生産されるものの、「イングランドのワイン」として人気を博した酒である。その背景には、百年戦争でフランス領を失った後のイングランドに対する純正ワインの輸入量減少と、レコンキスタを完成させた後のスペイン王国によるイングランドへのシェリー輸出振興政策があるとされているが、ここでは深追いはしない。「フランスのワイン」ではなく「イングランドのワイン」としてシェリーが好まれていたということだけ、理解していただければよい。現在のように樽を幾重にも並べるソレラ・システムでシェリーが生産されるようになったのは19世紀以降とされているが、19世紀はイングランドでアフタヌーン・ティーや食前酒・食後酒の習慣が普及した時代でもあった。(シェリー樽を使うスコッチ・ウィスキーの話や、この時期にフランスで猛威をふるったフィノキセラの話についても深追いはしない。)例えば、ハーヴェイ社のブリストル・クリームは食後酒としてよく提供される。その特徴は、クリームのように滑らかで甘美な味わいにあり、ここで言うクリームとは、シェリーの一種類を指す名前である。それは、辛口のフィーノ、褐色がかったアモンティリャード、甘口のオロロソをブレンドしてつくられる。ブリストル・クリームを生産しているハーヴェイ社は、アフタヌーン・ティーや食前酒・食後酒の習慣が普及しはじめた頃にブリストルに設立された会社であった。

ブリストルはイングランド西部にあって、古来スペインなどのヨーロッパ大陸諸国と、16世紀以降はアメリカ大陸との交易の拠点となった港町。ブリストルは、もともとアイルランドから輸入された羊毛を原料として毛織物を生産し、それを輸出することで栄えていた。毛織物の輸出先の一つにはスペインがあり、スペインにむけて毛織物を積んだ商船は、シェリーの生産されるヘレスを後背地にもったスペイン南部の港町カディスに達し、毛織物を積み出した後にはヘレスで生産されたシェリーを積んでブリストルに戻ってきた。いわばブリストルは、イングランドにとってシェリーの玄関口にあたる港町だった。かつてのハーヴェイ社は、フィーノやアモンティリャード、オロロソといったシェリーを購入してブリストルに持ち帰り、ブリストルでクリームを生産していた。今ではハーヴェイ社はブリストル・クレームをスペイン・アンダルシア地方のヘレスで生産しているが、それでもその銘柄にブリストルという名前を冠しているのには、そうした背景がある。

そもそもブリストルを出航したイングランド商船の寄港先だったカディスは、今から3000年ほど前にヘレスで酒精強化ワインを作りはじめたフェニキア人が交易拠点としてつくった港町であり、かのコロンブスが新大陸アメリカを目指して出立した港でもあった。スウェーデンとの関係で言えば、かつてユーテボリより出航したスウェーデン東インド会社の商船団が中国の広州を目指す長い航海の前に必ず寄港した港町が、カディスだった。シェリーは長期間に及ぶ大航海を支えた酒としても知られているが、紀元前の昔にあっては地中海を支配したフェニキア、今から500年ほど前にあってはアメリカからアジアにまたがる「陽の沈まぬ帝国」を築いたスペイン帝国、そして今から200〜100年ほど前にあっては七つの海を支配したブリテン帝国と、それぞれの時代にあって世界を支配した帝国に愛された酒だったのではないか…と僕は陳列棚に並べられたブリストル・クリームを手にしてふと思った。

ことほど左様に、Systembolagetとは、酒という世界が体系化された場所であるがゆえに、ヨーロッパの北の辺境にあってもそんな世界への思いの馳せ方ができる場所である。

ウップサーラでの講義に思う

ウップサーラ大学での二回目の講義、無事に終了。Erasmus Mundusの学生のみんなは多国籍なので、日本史、スウェーデン史について基本的な理解が全くない。それゆえ、それらを丁寧に補足しながら(そして僕のスウェーデン生活のアドリブを加えながら)進めると、授業時間がとても短く思える。スウェーデンのなかでも(少なくとも僕が経験したことのある)ウップサーラ大学とルンド大学の授業は、開始時刻の15分後に教員が遅れて教室に入って授業をはじめ、45分くらい話した後に1度授業途中に15分間のブレイクをいれることが慣行となっている。本来なら120分の授業時間なのだが、30分は時間が使えないわけだから90分勝負となり、しかも途中にディスカッションが加わると実質僕が思いの丈を話せる時間は60分強くらいになってしまう。これでは明らかに短い。今日は、近世のウップサーラという地に懐胎したゴート主義やリネー学派に代表される「世界の体系化」にむけた知的雰囲気が、江戸時代における日本とスウェーデンの交渉にどのような影響を与えたかについて持論を展開したが、これはさすがに難しかったようである。それに比べれば、明治維新以降の日本とスウェーデンの交渉は、日本から見た殖産興業の意図とスウェーデンから見た東アジア市場への参画の意図が合致するという点で、理解しやすかった模様。時間が過ぎるのを思わず忘れてしまい最後は学生たちに笑われたけれど、終わりには拍手をもらった。聞けば、こうした拍手は良いと思えた授業に対して捧げられる一般的な習慣なのだそうである。日本でも、スウェーデンの学生のように良い授業だと思ったら拍手をする、悪い授業だと思ったら途中退出するくらい学生の意思表示がはっきりしてくれれば、自分の講義内容の質に嫌が応にも意識的にならざるをえなくなるだろう。スウェーデンの大学はそれがはっきりしているから、ある意味残酷、ある意味明快。僕としては毎回授業を閉じるのが惜しいと感じるくらい講義の準備に気合いが入るし、それを終えた後の爽快感は何ものにも代え難い。今日は週末。となれば、大学をはけた後に訪れるSystembolagetで買うスウェーデン・ビールの味もまた格別だろう。

2009年4月16日 (木)

大阪大学で僕の授業を受講するすべての学生のみなさんへ!

大阪大学には、緒方洪庵先生の名前に由来するKOAN(Knowledge of Osaka University Academic Nucleus)という学務情報システムがあります。阪大の学生のみなさんはご存じですね。このシステムは年々着実に使い勝手が良くなっていて、休講・補講情報をはじめ、授業連絡に関する掲示板などに、逐次授業の情報を掲載できるようになっています。(KOANの充実に尽力されているすべての方々に感謝申し上げます。)今、僕はスウェーデンに長期出張していますが、出張期間中のことについても掲示板に情報を掲載しました。今学期、僕の授業を受講しようと考えている学生のみなさんは、ぜひKOANのほうもチェックしてください。よろしく。

2009年4月14日 (火)

北欧史概説aを受講するみなさん!

金曜3限の北欧史概説aを受講するみなさん!

シラバスにもあるように、6月から授業を開始しますので、必ず履修登録だけは行って下さい。すでにKOANシステムを見ると43人のみなさんが履修登録をされているようです。最終的に履修登録が締め切られた時点での人数で、この授業で使う教科書(山川出版社の『各国別世界史 北欧史』)を6月上旬に頒布できるように注文します。

4〜5月の休講分に関する代替措置については、8月の補講期間に集中して講義を行うことで対応します。よろしく!

北欧文化演習Va、VIaを受講するみなさん!

火曜2限のデンマーク史演習、火曜5限のスウェーデン史演習を受講するみなさん!

シラバスにもあるように、6月から授業を開始しますので、必ず履修登録だけは行って下さい。(それぞれの歴史ゼミに今年参加するみなさんの名前はこちらでも把握していますが、現時点での履修登録者数は0になっています。KOANシステムはスウェーデンからも履修登録者数とその名簿を逐一確認できますからね!履修登録を忘れずに!)

4〜5月の休講に関する代替措置については、近日中にこのブログのほうに課題を発表しますので、レポートを提出してください。4年生のなかで卒論代替科目の登録が必要な人は、デンマーク語・スウェーデン語それぞれ専攻代表の先生に確認と捺印を頂いて下さい。

デンマーク史ゼミ、スウェーデン史ゼミ、それぞれ新たにゼミに加わる3年生のみなさんは、僕が帰国するまで4年生の人たちの指示をあおいで、みなで結束してください。よろしく!

北欧文化特殊研究Iaを受講するみなさん!

火曜4限の北欧文化特殊研究Iaを受講するみなさん!

シラバスにもある通り、これは北欧の地誌をテーマとした授業です。受講者同士でグループ分けをし、各学期に一つのテーマでグループ学習と報告をして頂きます。今学期のテーマは、北欧の都市

6月から授業をはじめますが、この授業を1学期に受講する人は、履修登録だけは必ずしておいてください。(例年20数人が受講する授業ですが、現時点での履修登録者はまだ3人。まだ登録していない人が多いと推察します。KOANシステムはスウェーデンからも履修登録者数とその名簿を逐一確認できますからね!)

4〜5月の休講分に関する代替措置については、6月に授業を開始してから、受講者のみなさんと話し合って決めましょう。よろしく!

2009年4月13日 (月)

プロフィールの写真を替えました

氷結したルーレ川河口の上に立って、遠くにルーレオー市街を望む写真で、2009年4月撮影。このブログでこれまで使用した写真は、2000年5月にノルウェー・ベルゲンのパブで撮影されたもの、2005年3月にデンマーク・コペンハーゲンの近郊電車で撮影されたもの…と4〜5年おきで更新しているけれども、その都度、白髪化の進行具合が如実にわかる…って、もっと議論しなきゃいけないことは一杯あるのだから、どうでもいいことだね。

北を実感する旅

イースター休暇を利用したノッランド旅行から昨日帰ってきた。僕はスウェーデンのことを勉強しているけれども、これまでは最南端のスコーネへの滞在が長く、北へ向かうのはこれがはじめての経験である。

伝統的なスウェーデンの地方区分は北から大きく分けて、ノッランド、スヴェーアランド、ユータランドの三つに分かれる。(伝統的な区分ゆえ、本来スコーネは南部のユータランドには含まれないが、現在の地方区分ではそれに含まれる。)ノッランドは面積的に言って一番広いが、今回の旅行はそのなかでもボスニア湾北部に面するヴェステルボッテンとノルボッテンのみ。(ちなみに伝統的レーン区分に言うウステルボッテンはフィンランドに含まれ、○○ボッテンとはボスニア湾を取り囲むレーン区分を指す。)

往路はアーランダ空港より空路でヴェステルボッテンの中心都市ウーメオーへ。ここでの滞在目的は、かつて根津に住んでいた頃、スウェーデン語を教わったスウェーデン人の家族に再会するため。ウーメオーは大学町として20世紀後半に急激に発展した町だが、今回の滞在では日本人のご主人とその子供たちとともに、ウーメオー郊外のいまだ雪に閉ざされた深い森のなかでもっぱら雪遊びに興じる。真冬には氷点下十数度に落ち込むという環境のなかにあっては屋外に出るのも死活問題。こういう環境にあっては長く家屋のなかに閉ざされる時間も長くなり、あれこれと想像をめぐらす力もたくましくなるだろうと実感。

(スウェーデンには「プラモデルをつくる」ことを趣味とする人は少ないようだが、現在のように日本のサブカルチャーがとても流行している状況にあっては、寒く暗い冬の時間を楽しむ習慣として「プラモデル」など、きっともてはやされるのではないか。)

ウーメオー滞在の後、バスにてノルボッテンの中心都市であるルーレオ—へむかう。SJの鉄道路線では直接ルーレオーへむかう路線が限られ、大抵は途中フェレフテオーで乗り換えを求められる。バスで揺られること4時間半あまり。途中では、とても小さな集落であるビュグデオーにもバスは立ち寄る。ビュグデオーは、近世スウェーデン軍事国家研究の泰斗であるウップサーラ大学のJ.リンデグレーン教授が学位論文で、農民の兵員徴発による人口動態論的観点を含む資源搾取論を検証した村。それを知らなければ、ただ通り過ぎるだけの土地だと実感。

ルーレオー滞在の目的は、世界遺産に登録されているガンメルスタードを訪れること。ルーレオーはボスニア湾北端のルーレ川河口に位置し、ノッランド交易の拠点として中世以来栄えた港町。ただしスカンディナヴィア半島の隆起の影響を受けて、17世紀半ばに港湾機能を備えた都市部は移動させられ、結果的に現在世界遺産として登録されているガンメルスタード(旧市街)は、現在の都市部より10kmほどルーレ川の上流に位置している。

日本で言えば、盆か正月かというようなイースター休暇の時期。ガンメルスタードどころか、ルーレオーの市街地にも人は少ない。挙げ句の果てに時機を逸した水分混じりの降雪。ガンメルスタードへの訪問は、肉体的にも精神的にも寒いものであったが、だからこそ、教会を中心に教会訪問者の滞在用コテージが数百も集まって建てられているシュルクスタードと呼ばれるガンメルスタード独特の集落構造の意味を、身をもって知ることもできる。そうしたコテージをコンディトリとして改装している店に入ったときには、「家屋のなかで得られる暖」のありがたみを実感。

ルーレオーには、サーミ文化の蒐集で著名なノルボッテン博物館があるも、なにせイースター休暇ということで見ることができず。しかしかわりに、凍てついたルーレ川(というか、ほとんどボスニア湾)の上につくられた「氷の道」の上を雪橇でめぐる。ここでいう橇とは、スウェーデン語で言うスパルク(キック式橇)で、足で雪面を蹴り上げながら滑るもの。これまでも、このスパルクについては(…たぶんO.マグヌスの『北方民俗誌』か何かで…)知っていたのだけれども、実際に凍てつくボスニア湾の氷上を快適に滑ってみて、これならば氷上が凍てつく冬のほうがボスニア湾の東西南北をめぐる人と物の移動は円滑だったろうと実感。

復路はルーレオ—駅よりSJの寝台列車に乗って、12時間以上かけてウップサーラへと戻る。寝台列車は、SJが世界に誇る振り子式特急のX2000とは異なり、振り子式の台車ではないから、揺れること、揺れること…揺れること。夜中に遠心力で体が押し出されたり、引き戻されたりする感覚を何度となく味わう。それは、森林地帯を縫うように鉄路が敷設されたがゆえ、スウェーデンの鉄道にはカーブが多い結果である。それゆえ、いかにX2000がそうしたスウェーデンの地勢に対応する形で開発された画期的な特急だったかということを実感。

戻ってみれば、ウップサーラの気温はセ氏15度を越えている。ルーレオーでは考えられないことだが、ここのスウェーデン人たちは夏支度の服装でカフェや中庭でたむろをはじめている。北欧神話の昔から、北欧の季節に春や秋はなく、夏と冬だけと良く言うが、酷寒のルーレオーから初夏を思わせる陽気のウップサーラへ戻ることで、冬から夏への季節の移り変わりを一気に実感。

復路の列車のなかでスウェーデンの地図を眺めながら思っていたことだが、南北に長いスウェーデンを今一度北の視点から眺めてみると、その中間はスンズヴァルあたりにあって、ストックホルムやウップサーラなど伝統的に人口の集中した地域はだいぶ南に位置し、ルンドやマルメーのあるスコーネはもはや南国(…もとはデンマークなのだから当然異国というべき…)のようだ。あくまでも気候と地勢の面から言うのだが、伝統的な区分で言うスウェーデンとデンマークはやはり別世界。むしろフィンランドを含むスウェーデンと、スコーネを含むデンマークの区分こそが、そうした気候と地勢の面から言って自然な区分だと実感。

ことほど左様に、文献から培った知識を体の五感を活かして感得する歴史学の醍醐味を実感できる旅だった。

2009年4月 7日 (火)

いろいろと感動しています

実のところ、先週僕の体調はあまり芳しくなく、週末には夜も眠れぬほどに喉の痛みが激しくなったため、「これはこちらの急患にでも行く必要があるかな(…通常はVårdcentralenというところで症状を相談してから病院への紹介を書いてもらうという方法がとられ…急患についても緊急性がない場合には翌日以降に回される場合が多いらしい…)」と意を決し、先日知り合ったこちらのお医者様にご相談申し上げたところ、懇切な対応を頂いて快方にむかっている。お医者様の圧倒的な技量に舌を巻くばかりで、今この感謝の念を適切に表現できる言葉を見つけることができない。(こんなことのできる医師ってすばらしい!)

投薬中の身ではあったものの、先週末はおよそ半年ぶりにストックホルムへ出かけた。日本からたまたまいらした薬剤師ご家族のアテンドということで、ストックホルムの主立った観光名所を案内。(…今回の僕の体の件では、Apoteketで、Astra Zeneca製のAlvedonという(スウェーデンでは移民向けのスウェーデン語教材にも登場するくらい有名な…)痛止め薬を購入し、その恩恵を受けた。Alvedon、すごく効く、万歳!こんな薬を開発できる薬剤師ってすばらしい!)

090404q_5 で…この写真を見て欲しい。ストックホルム観光名所の一つであるヴァーサ号博物館の館内の写真である。(近世スウェーデン史を専門とする自分にヴァーサ号博物館の説明を今ここで求めないで…それだけで一冊の本になってしまいそうだから。)ヴァーサ号博物館は、海底から引き上げられた遺物の解析が少しづつ、少しづつ進展している結果、いつ訪れても新たな発見がある。

(これが、水中考古学という比較的新しい技術に基づいた学問分野の成果に基づいた、今、生み出されつつある博物館のおもしろみだろう。博物館もまた「生物」のようで、その成長の過程を見るのは実に楽しい。)

で、一度でもヴァーサ号博物館を訪れたことのある方ならおわかりだろうが、この博物館は現存する唯一の17世紀の木造戦艦を陽光から保護するために、極力外光の侵入を避ける建物の作りとなっている。だから、その館内はとても暗い。それゆえ写真撮影は自由だけれども、そこで撮れた写真は、フラッシュがたかれる場合には思い通りの色が再現できない、あるいはフラッシュを強制的にたかなかった場合でも手ぶれしてしまう…そんなものばかりだろう。

今回のスウェーデン滞在では、リコーのGR digital IIという単焦点デジタルカメラをもちこんでいる。ちょっと前にカメラ好きの間で話題になった機種である。今時にはめずらしく光学ズームも手ぶれ補正ももたないカメラだが、5群6枚(絞り枚数7枚)というレンズ構成で開放絞り値が2.4という、とても明るいレンズをもったカメラである。明るいレンズをもっているというのは…百聞は一見にしかずということで、この写真を見てもらいたいのだけれども、フラッシュをたかずともしっかりと構えるだけで、ヴァーサ号の勇姿をここまではっきりくっきりとらえることができた。これは驚き。おそらく僕らの目には見えていない船体の質感まで、はっきりと再現されている。(背景のぼけみも再現されたりするので、僕はすっかりデジタル一眼レフを使わなくなった。)

今回はこのカメラでヴァーサ号博物館だけでなく、ストックホルム市庁舎内の各ホールも撮影。(後者は2004年に開催された北欧歴史家会議のレセプション以来だけれども、あのときは黄金の間での宴会に興じて、ホールの写真を撮影することをすっかり忘れていた。)で、手ぶれ補正だとか、スマイル認識だとか…そのような新しい機能とは一切無縁だけれども(…ズームさえついていない…)、暗い場所での資料撮影が求められることの多い歴史学系の用途では、こうした明るいレンズこそがカメラにもっとも求められる性能だと実感。最近はGR digital IIの本体価格がだいぶ低価格になってきているので、一言、お勧め。(こんなカメラを作れるなんて、技術者ってすばらしい!

(リコーは知らないけれども)今回の僕の感動話の連続には阪大関係者が絡んでいるんだけれども、阪大は蜘蛛の糸にすがるように「大阪の大学」を目指すことよりも、世界の人間を感動させる知識と技術を提供できるような堂々たる学堂を目指せばよいと思う。阪大出身者の力量にこそ感動した週末だった。

(今回、前々から資料撮影用として愛用してきたカシオのEX-S10も持参しているのだが、はっきりいってその実力は比べものにならない。まったく分野の異なるカメラと考えれば良いのだろうか。リコーからは光学ズームが搭載されたGX200も発売されているが、肝心要のレンズがGR digital IIとは異なる。多少暗い場所でも、はっきり、くっきりとした色調の再現を目指すなら、GR digital IIがよいと思う。)

2009年4月 1日 (水)

エイプリルフールではありません

久々のブログ投稿はエイプリルフールではない。

ウップサーラでの滞在は神学部の同僚の親切と、2000年のルンド大学留学時に得たスウェーデンのパーソナル・ナンバーと、スウェーデン語会話のおかげで順調である。順調ゆえにすぐさま見えてきた膨大なウップサーラの史料の山に恐れをなし、刻々と流れる時間を有効活用する日々。先週末には、長らくスウェーデンにて学究生活を送られていて、今はウップサーラ大学の病院に勤務されている日本人のお医者様との新たな良き出会いもあった。

(先週末からは発熱して昨晩まで寝込んでいた。十年以上共に生活している妻が言うには、僕は年度末に必ず発熱して寝込むのだという。それはスウェーデンに来ても変わらなかった…順調なウップサーラ滞在の影の功労者は他ならぬ妻である。ありがとう。)

ウップサーラは先週末に吹雪いたかと思うと、ここ二、三日は暖かくすっかり雪は溶けてなくなったようである。スウェーデン人から見れば、セ氏(←はい、この人も18世紀のスウェーデン人ね…)5度以上の晴れの天気ならば、もうそこに春が訪れたという感覚を得るのだろう。しかし、ここウップサーラでは、冬を追いやり春の到来を知らせる黄色い小さな花(vintergäcka)が咲いているのを見ることがない。コンタクトパーソンのマグヌス(彼はラテン・アメリカの宗教史の専門家で、彼のルンドでの指導教官は明治日本のプロテスタンティズムを研究したA. Lande)に聞いてみると、今年のウップサーラではもうvintergäckaの季節は過ぎてしまっただろうとのこと。

それはさておき、今日、僕はウップサーラ大学で一回目の授業をした。海外の大学で外国語で講義をするのは生まれて初めてのことだ。Euro Cultureの授業なので学生はEU圏からだけかと思ったら、インド、パキスタン、タイ、はてはロシア、グルジアまでとても国際的な雰囲気に溢れていた。(なんだかグルジアとは奇縁を感じる。今日もグルジア・ワインの話で盛り上がった。)講義テーマは、「スウェーデンにおける日本イメージの歴史的形成」というわけで、日本史あり、スウェーデン史ありの内容で複雑だったかな(…しかもほとんどの学生は、その両方を勉強したことがない…)と思ったのだけれども、質疑応答は盛り上がり、最後は拍手まで頂いた。講義の後の拍手など、日本でさえもらったことがない。

今日は二つとなりの研究室の女性研究者とコーヒーを飲んで会話を楽しんだところで、帰宅しようと思う。(…さきほど食堂に行ってみて何人かと話していたら、やはりスウェーデンではまずコーヒーを飲むこと、そしてコーヒーの時間(fika)を共有することが重要だ…茶ではダメだと、繰り返し念を押された…やはり、な。)

最後は、このブログらしく物欲の話でしめよう。iPhoneのケースをマクロレンズ付きのGriffin Clarifiに替えてみた。というのも、ここウップサーラで一番オシャレと思うMac専門店でそれが220SEKという値段で売られていたからだ。日本円に換算すると2600円程、日本のApple Storeでは3980円で売られているもの。今のスウェーデンならまじめにその値段で買える。MacBookなども、スウェーデン語版キーボードで良ければ、今スウェーデンで買うほうが遙かに安い。こんな話、昨年には考えられなかったことだが、エイプリルフールではない。

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