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2009年1月 7日 (水)

吉村くんの発言に答える

僕の所属している阪大世界言語研究センターで進められている「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクトの特任助教で、Word Grammarという言語理論とチュルク系の言語研究を専門としている吉村大樹くんが、ご自身のブログで、「古谷先生、どんなもんでしょうか?」と僕に意見を求める発言をされているので、僕のブログのほうでそれへの回答を述べたいと思います。以下の発言は、吉村くんのブログの1月6日づけの発言をご覧になられてからお読みくださると幸いです。

吉村くん!「言語学なんて言いながら理論がどうこう、普遍文法がどうこうってのを振りかざす時点で、社会やら文化やらの研究とは程遠くなっている」っていう不信感は、世界言語研究センターに所属する研究者なら、誰ももっていないんじゃないかな。僕らの地政学的研究プロジェクトは開始2年目で、今のところ文化領域の研究がこれまでの地域研究の枠組みから言うと理解しやすいから、そういう方向が目立っているだけでないかな?でもね、世界言語研究センターは、「世界の言語と言語に裏打ちされた文化」を討究することがミッションの核だから、吉村くんの言うように、はやく世間に認められるような具体的なかたちで「言語と文化の総合的な研究」のあり方を示していく必要があるだろうね。そして、言語学のアプローチと歴史学・文学・社会学などのアプローチを有機的に連携させたところに、僕たち世界言語研究センターが21世紀の学界に提供できる新たな学術領域のあり方があるのだと思うよ。これは日本の他のどの研究機関も取り組んでいない野心的な試みだし、そのテストケースとして僕たちの「地政学的研究」があると思えば良い。

「社会的な文脈等々を排除しなくたって人間の言語能力の追及は十分に可能だし、その一方で言語話者(人間)がもっている文化的知識・社会的知識のような非言語的知識と言語知識とのメカニズムの両面を追求することも可能」という吉村くんの主張はおおかた賛同するよ。けれども、ここで「言語話者(人間)がもっている文化的知識・社会的知識のような非言語的知識」という言い方にはちょっと注意が必要だね。歴史学研究や文学研究をしている者ならば、人間の情報伝達・意思疎通の手段として言語あるいは言語的作法(これには音楽や絵画なども含まれる)が根幹にある以上、文化的知識・社会的知識は当然、非言語的知識にはならないことは誰もが理解していることだよ。(もちろん吉村くんの主張のコンテクストでは、「言語的知識」は「生成文法の枠組みが言うように「理想的なX語の話者」というものを設定し、社会的な文脈等々を排除して討究される人間の言語能力」という意味で用いられているのだろうけれども。)

文化的知識・社会的知識は言語的表現のうえに伝達されるけれども、その言語的表現はこれまた言語的認識枠を前提とした解釈のうえで、多様に変幻するもの。さらに複雑なのは、文化的知識・社会的知識の発信者と受信者の双方が、それぞれ自らが生きる環境に内在化された言語的認識枠に従って解釈を行うから、同じように綴られたり表現されたりする文化的知識・社会的知識も解釈の段階では意味が千差万別になってしまう。だから、歴史学研究や文学研究の現場では、ただ資料の文章を翻訳するだけでは何の意味もなく、資料・史料の文言の一つ、一つが時間的・空間的にどのような来歴やコンテクストをもって用いられているのかを考え、そしてその意味を解釈する必要がある。ことほどさように、歴史学や文学は語学力云々を超えたところで言語に対する慎重な理解、接し方ができなければ何も先に進めない研究分野なんだな。だから一つの論文を書くにも、時間がかかる。(こうした言語に対する理解や接し方について、社会科学系の学問はどうだろうか?)

最近の僕は、言語的認識の枠組みを前提とした解釈の過程では、主観性と客観性の二元論的対立を包括する間主観性の存在を感じていて、それが例えば時代性だったり、地域性だったりしていると思うのだけれども、そうしたものに迫ろうとする文化理解というのはそうした○○性と便宜的に表現しているものを形式として抽象化するのではなく、それぞれの時代や地域で言語的枠組をもって経験的、具体的に意識されたものに留意しなければならないと思ってる。だから、「ウズベク語の使用地域のような、一言語話者が同時にロシア語もタジク語も操るような複雑な言語地域にあっては、むしろ文法記述においても、そういう態度で臨んだほうがより現実的なんじゃないでしょうか」という吉村くんの提案については、それこそ複雑な言語地域を対象にすることは、近代主義が疑わなかった主観・客観の二元論を相克するための間主観的なものの存在を言語にうらづけられた経験的理解として示す最初のステップになりうるものとして適切な考えだと僕は思うから、来月の国際シンポのときにそういうアプローチで話をしてくれれば良いと思うよ。

なかなか意欲的な問題提起を吉村くんがしてくれたから、今日も良いコトを学ばせてもらいました。ありがとう。

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コメント

先生、どうもありがとうございます。大変勉強になりました。

細かいところですが、「言語的知識」「非言語的知識」の理解にどうやらお互いの食い違いがあるようです。でもこれ、ここで全部書くのもあれなので、今度お会いした時に詳しく説明します。1点だけ言うとすれば、どんな文化的知識も社会的知識も、それを発話した時点で、それとは別の「言語的知識」が作用します。この知識は、どうやって文を組み立てるか、文を構成する語はどのような順番で並ぶのか、各語はどのような意味をもっているのか等々、本当に言語それ自体を操る具体的な知識で、この知識は、たとえば「信号の色が青なら進む」「左手の握手は別れを意味する」等々の知識とはやはり別物であると考えたほうがいいんじゃないかと。僕の使った各用語の意図は、だいたいそういうあたりにあります。ただ、知識に境界線がきっちり引けるのかどうか。これはやはり、怪しいのではないかというのがWord Grammarの考え方ではあるのですけども。

なんだかこういう話も、世間話程度ならいいんですが、実名を出してウェブ上に残るとなると、ちょっと怖いですよねぇ。

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