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2008年6月19日 (木)

都市から見るデンマークの「海上帝国」

とうとう研究室にあるHPのTabletPC 1100(もとよりヒンジ部は破断してキーボードのない状態でしたが)が電源を入れてもOSが立ち上がらなくなりました。東大の近藤先生のところも古いPCが調子悪くなったという話を聞きます。伝染するわけではないでしょうが、4年間酷使してきた(しかもその間不調は一度もなかった)ので、そろそろ限界でしょうか。研究室に残るは、これまた4年もののThinkPad X40と3年もののiBook G4。いつ壊れてもおかしくない状態ですから、使い続けるのは怖いですね。頃合いを見て、完全退役させたいものです。

(近藤先生はテキストデータベースでメール管理を考え、新しいPCには秀丸メールを導入されたとのこと。それであればこそ、テキストデータベースならばデータ検索も容易ですし、堅牢なライティング環境を確保できます。僕も、最近「文章執筆に集中する術」というどこかの記事を読んでから、JDarkRoomというテキストエディタを試用しています。(Windowsユーザだったころは、僕も秀丸エディタを使っていました。)黒い背景に緑色の文字。フルスクリーンで文字しか出てこないので、余分なアイコンなどの視覚情報が入らず、雑念なく文書執筆に集中できます。意外と良いかも。そういえば、東大の石井先生はWindows時代に入ってからも、長らくMS-DOSの走るPC98でVz Editorを愛用されていたことを記憶しています。このJDarkRoomは、文書執筆ツールとしてのVz Editor的雰囲気を感じさせてくれます。)

さて、昨日の北欧の地誌の授業は、学生諸君によるグループ学習報告の会で、コペンハーゲン、マルメー、レイキャヴィークの都市機能の変遷に関する報告がなされました。一見するとそれぞれの報告は何の関連性も見いだせないセッションだったかも知れませんが、落ち着いて関連してみると、デンマークの「海上帝国」としての性格から全体とまとめ上げられる報告会でした。

デンマークは一般的には農業国として知られるがゆえに、耕作地の拡がるユラン半島・フュン島・シェラン島などを中心にしてデンマーク国家のイメージが作られています。しかし、中世にはバルト海東岸からゴットランド、スコーネなどをその領域に含めてバルト海世界の東西を縦断する国家だったわけですし、近世以降はアイスランド・グリーンランド・フェーロー諸島をはじめ、西インド諸島・南インド・トランケバール諸島などまでを領土に含むいわば「海上帝国」を形成し、遠洋航海とその貿易でも栄えた国家だったことを忘れてはなりません。

コペンハーゲンが首都化をはじめるのは、デンマークがハンザ同盟との経済覇権抗争の渦中にあったカルマル連合期の15世紀半ば以降のことですが、それが大陸ヨーロッパにおける「軍事革命」に見られた要塞建築技術を援用しつつ、中世以来の都市構造の外延部を保塁で補強し、一大城塞都市に変貌するのは17世紀以降のことです。城内にクリスチャン4世の治世下でオランダ・ルネサンス様式の建築が数多く建設されたこの時代以降、コペンハーゲンには西インド会社やグリーンランド貿易会社などの特権商事会社の本社も置かれ、「海上帝国」の核として、いわばバルト海世界における「世界の港」として発展し、これを防御するために城塞強化が図られます。

まさにデンマーク王権による独占的貿易事業によって築かれた「海上帝国」に服した一つの地域がアイスランドであり、都市としてのレイキャヴィークの発展は、17世紀以降のデンマーク王権によるアイスランド交易の拠点に起源の一つを有しています。とはいえ、「火の国」アイスランドにおけるレイキャヴィークの本格的発展は、中世以来の南アイスランドの政治・宗教の拠点であった内陸のスカウホルトが1783年のラキ山の噴火によって壊滅的打撃を受け、スカウホルトにあった拠点機能が海岸部のレイキャヴィークに移ってからのことでした。しかも18世紀末の啓蒙改革期のことでしたから、デンマーク・アイスランドの交易も自由化の道を歩み始めていたことにより、レイキャヴィークの急速な発展に拍車をかけます。

これに対して、エーアスン海峡を挟んでコペンハーゲンの対岸に位置するマルメーは、確かにスコーネの南東岸におけるニシン市場の拠点としてルンド大司教のもとで、カルマル連合期にはカルマル連合王(すなわちデンマーク王)のもとで庇護を得て都市化が始まりますが、コペンハーゲンのような「海上帝国」の核ではなく、あくまでもスコーネの地方経営におけるエーアスン海峡に面した一つの拠点にしか過ぎませんでした。(ランスクローナ、ヘルシンボリなどもそうした位置づけで語れるでしょう。)それゆえに、デンマーク期においても、1658年以降のスウェーデン期においても、「軍事革命」の所産である幾何学的な要塞建築による都市の補強はなされることはなく、基本的には15世紀半ばに築かれた都市プランが残ります。

マルメーは17世紀後半にはスウェーデン領になりますが、デンマークとは異なって「海上帝国」としての性格をもてなかったスウェーデン(「バルト海帝国」はあくまでも「内海の帝国」であって、アメリカ(一時期を除く)・アフリカ・アジアに植民地はなく「外洋に開かれた帝国」ではありませんでした)では、軍港都市として築かれたカールスクローナを別とすれば、コペンハーゲンのような「世界の港」ゆえに要塞機能ももった都市はほとんどなかったと言えるでしょう。(例えば、スウェーデンが「世界に開かれた港」として築いたユーテボリの規模と都市プランは、コペンハーゲンのそれとは比較にならないほど素朴なものです。スウェーデンには、コペンハーゲンに匹敵する「世界の港」は存在しなかったと言えると思うのですが、それはスウェーデンがデンマークのような外洋に開かれた「海上帝国」ではなかったためだと言えるかも知れません。)

デンマークの「海上帝国」としての性格は、ナポレオン戦争期にフランスと同盟した結果、その後のウィーン体制のなかで多くのアメリカ・アジアの植民地がイギリスなどに譲渡され、瓦解します。コペンハーゲンは、ナポレオン戦争期に二度イギリス海軍から攻撃を受けます。(1801年と1807年。)とりわけ二度目の攻撃のときには、17世紀以来築かれてきた城塞の防御構造が長い射程距離を誇ったイギリス海軍の火力にかなわず、コペンハーゲンに甚大な損害がもたらされたと言われています。

「海上帝国」としてのデンマークの終焉が、イギリス海軍による攻撃と「帝国の核」を守るコペンハーゲンの要塞機能の限界と重なっていたことは興味深い点です。かくして19世紀半ば以降はコペンハーゲン西部の城壁撤廃と堀の埋め立て、鉄道網の拡張などが進み、コペンハーゲンが中・近世の枠組みを超えて、近代都市として郊外へと市域を拡張し始めます。それはあたかも、中・近世の「海上帝国」としてのデンマークの性格からの脱皮のようにも見えますね。

(実のところ、19世紀後半におけるコペンハーゲン要塞の整理縮小と新たな都市整備計画そしてそのための予算審議という問題は、近代デンマークにおける議会政治の展開を考える上で重要な問題になってくるのですが、この問題は今回の発言の主旨とずれますので、この発言はこのあたりで閉じることにしましょう。いや〜、しかし、学生のみんなは、本当によく調べてきてくれるものです。感心、感心。)

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