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2008年6月 3日 (火)

「リンネの帝国」への道(2)

今日は久しぶりに自宅に引き籠もって、一日中、七年戦争のことを考えていました。これは先々月来の正戦論、先月の日本西洋史学会における小シンポジウムで頂いたご意見(例えば、17世紀と18世紀の戦争はどう違うのか?)、それに今進めている科研の研究に絡むためです。(決定的だったのは、日本西洋史学会での近藤和彦先生によるご講演の内容で、先生は内田義彦などにも触れつつ、先生のマンチェスタとヨーロッパ世界を往還する実証研究の成果として18世紀中葉における一つの転換を見ていらっしゃる話を聞いたことによります。)

なんとなく、1750年代から60年代が近世から近代へと至るヨーロッパ文明の一つの画期である気がしていました。で、この時期のヨーロッパ世界が経験した一大事件は七年戦争ですから、いずれは七年戦争に取り組もうとも思っていました。七年戦争は、一般的には、ヨーロッパ大陸ではいわゆる「外交革命」直後の国際紛争であり、プロイセンとオーストリアのシュレージェンをめぐる対立だとか、アメリカ・インドでのイギリスとフランスの植民地抗争だとかが注目されてきました。ここで、あらためてこの七年戦争を真剣に考えてみますと、スウェーデンやスペインも含めてヨーロッパ主要諸国がこれに参戦した結果、戦場はヨーロッパ・アメリカ・アジア(例えば、フィリピンのマニラなどもイギリスによって占領されていますね)に及び、おそらくチャーチルあたりが言ったことだと思うのですが、この七年戦争こそが「最初の世界大戦」だったのかも知れません。

学部生の頃、20世紀という時代は「世界戦争の時代」であって、20世紀国家は世界戦争に対応する形で形成されてきた国家だと勉強しましたが、論理的飛躍を許してもらうならば(ほら、ブログの文章っていうのは決して根拠のある文章ではないですからね…妄想も含まれますよ…気をつけてくださいね…)、「世界戦争の時代」というのはすでに18世紀半ば以降に到来していたのかも知れません。(無論、18世紀半ばの「世界戦争」はイデオロギ対立や対抗文明といった座標軸はまだ形成されていなかったでしょうから、あくまでも原初的な形ですが。)

ここからは、完全に妄想ですよ、妄想。注意して呼んでくださいね。で、ヨーロッパ世界が最初に直面した「世界戦争」が七年戦争だったとするならば、それへ対応する形(あるいは七年戦争後の国家再編)で模索された「世界戦争」対応を目的とした最初のレジームが、「啓蒙専制体制」ということになるでしょう。啓蒙専制は従来「市民社会形成の遅れたヨーロッパ周縁部における絶対主義国家の延命措置として君主主導で実施された上からの改革」と定式化されてきました。しかし、実際に七年戦争後のほとんどのヨーロッパ諸国における国家経営の方策が「啓蒙専制」的政策だったことに注目するならば、むしろフランス革命に至ったフランスこそが「世界戦争」対応の「啓蒙専制」的な国家・社会の再編に失敗した例外的事例だったとさえ極論することもできます。(僕の炸裂する妄想を続けざまに語るならば、「啓蒙専制」の失敗としてのフランス革命が行き着いた果てに、ようやく近代・現代ヨーロッパ文明を語る上で必要になるもう一つの「対抗文明」が形成されたというわけになるのかな。)

近世バルト海世界における戦争を背景とした国家統合の論理展開を問うことが「リンネの帝国」のテーマの一つであるならば、近世スウェーデンが直面した戦争の性格がそれぞれの時代に応じてどのように違ったのかを前提として論じ、それに対応した国家像を検討することが必要になります。三十年戦争はヨーロッパ主権国家体制内でスウェーデンが関わった最初の本格的国際戦争、大北方戦争はバルト海世界という周縁世界での覇権交代をうながした局地戦争、そして七年戦争は「世界戦争」という新たなヨーロッパ世界の抗争のアリーナだった。そんなふうに近世スウェーデン国家の枠組みを基底する戦争の性格の差を今は論じておきます。

無論、七年戦争と七年戦争後の国家経営戦略は、各国のおかれた事情によって詳細は異なります。スウェーデンの場合には、啓蒙専制君主グスタヴ3世の父王であるアドルフ・フレドリック(…セムラというケーキの食べ過ぎで崩御した国王です…)が即位したときの国際関係によって、アドルフ・フレデリック出身のホルシュタイン・ゴットープ家を支持したロシアとの関係で反イギリス・反プロイセン側で参戦し、ポンメルンを主戦場として戦います。(かのエカチェリーナ2世とアドルフ・フレドリックはいとこになります。互いの母親がホルシュタイン・ゴットープ家の人間で姉妹でした。)反プロイセン側で参戦したもう一つの理由は、アドルフ・フレドリックの后としてプロイセンから招かれたロヴィーサ・ウルリーカの存在です。(七年戦争当時の王国議会における政党間の対応は、今後の勉強の課題とさせてください。)さて、彼女はプロイセンのフリードリヒ2世(大王)の妹にあたりますが、1751年に夫王を立てて王国議会停止と絶対的王権の復活を求めたクーデタを企てだものの、失敗します。その結果、スウェーデンはスウェーデンの国権を牛耳ろうとして策動したプロイセンに反対して参戦したとも言われています。実際には七年戦争のポンメルンにおける戦局はスウェーデン側の圧倒的不利で、このロヴィーサ・ウルリーカの人脈に頼ってはじめてプロイセンとの講和が実現されるのですが。あぁ、無情。

スウェーデンにおける啓蒙専制は、1772年のグスタヴ3世のクーデタ以降、彼の治世で実現されたことになっています。スウェーデンは、大北方戦争の敗北の後、王国議会におけるハット党とメッサ党との二つの政治グループが拮抗し、王国議会によって国政が担われる「自由の時代」と呼ばれる時代を迎えていました。まぁ、ハット党は冒険主義的な外交政策をとり、メッサ党は国内情勢の安定を模索する政策をとっただとか、ハット党は反ロシアで親フランス・プロイセン(…そうそう、『ベルサイユのばら』で有名になったハンス・アクセル・フォン・フェルゼンの父親ってのは、また名前がハンス・アクセル・フォン・フェルゼンなのだけれども(…だから便宜的に父は大フェルゼン、子は小フェルゼンと呼ぼう!…)、大フェルゼンはハット党のリーダーを務めていたこともあって、だからフランスで、ベルサイユ宮殿で、小フェルゼンとマリ・アントワネットの…って話にもなるわけですね…)だったとか、メッサ党は親ロシアだったとか言われてますけれど、七年戦争の頃から経済自由化だとか、公民権の開放だとか、言論出版の自由化だとか内政改革を進めていたことは事実。王国議会では、七年戦争を境として広範な資源動員が必要と考えられていたわけですね。

ただし七年戦争参戦の失敗あたりから、二大政党を引っ張ってきた王国議会を舞台とした貴族の集団指導体制には、やはり王国議会の構成者だった農民層や一部の市民層から批判が出てきていて、(スウェーデンの場合、王権が独裁的な権限を認められるときには、大抵、市民・農民が結託して王党派を結成し、王権を支持することが普通なのですが…グスタヴ・ヴァーサの擁立のときも、カール11世の絶対王政確立のときも、そしてグスタヴ3世のときも…)結果的に、市民・農民の支持を基盤としてグスタヴ3世の啓蒙専制体制が確立されます。グスタヴ3世は、1751年にクーデタを起こそうとして失敗したフリードリヒ大王の妹ロヴィーサ・ウルリーカの息子ですが、自らの夫ができなかった体制を息子が確立したわけですから母から見れば本懐を遂げたことになるのでしょうが、大切なことは、結果的にグスタヴ3世の確立したレジームは、七年戦争後の内政改革を継承しつつ、市民・農民の支持を集中させることによって確立されたスウェーデン国内の資源総動員体制だったと論じることもできるという点。このように考えると、グスタヴ3世の統治モットーがスウェーデン語を使って「祖国」だったということ、「祖国」というコトバを用いてどのようなスウェーデン国家を模索しようとしていたのかも納得できる話になります。

う〜む、妄想猛々しい話で恐縮ですが、そんなこんなで七年戦争と啓蒙専制の関連を背景に含めつつ、「リンネの帝国」の勉強を進めています。(そういえば、戦前にはかの石原莞爾がおそらくフリードリヒ大王の戦術研究との関係だと思いますが、石原自身の手でフリードリヒ大王による『七年戦争史』が翻訳されていますね。七年戦争、かくも奥深し。)

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