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2008年4月26日 (土)

授業と研究の間

新学期三週目を終えて授業のほうもフルスロットル状態。今年度の金曜日の授業は大学院の演習と学部の北欧史講義、スウェーデン語講読が続きます。スウェーデン語講読は昨年思いついた講読授業の新機軸を早速実践。マルチメディアルームを使ってクライアント端末をネットにつないでもらい、その場でテキストに出てくる単語・用語・述語など即座に検索して調べてもらう形にしました。

これはなかなか良いですね。スウェーデン語の単語の意味はもちろんですが、人名・地名はもちろんテキストに出てくる述語等についてネット上のリソースを使った調べ方を指導できますし、学生たちに誰が一番はやく情報に到達できるか競争形式にして講読の授業にエンタテイメント性をもたせることもできますし、出典情報はスウェーデン語はもちろん、日本語・英語・ドイツ語…何語でもよいとさせると出典の如何によって同じ述語でも解釈や意味の対比もできるのでさらに面白くなる。(例えば、昨日も「子守歌」と「童謡」の違いだとか、フランドル地方における「フランス語圏」という話からワロン語やフラマン語の話まで、短いスウェーデン語のテキストから学生の知性を刺激させる情報を一気に深めることができました。)例え授業の場とはいえ、ネット検索した場合の出典情報は答えさせます。スウェーデン語のテキストに出てくるものですから、スウェーデン語のWikipediaから答えを導き出す学生が多いのですが(…これはちょっと問題なのだけれども…)、内容の精度には不安もあるWikipediaとはいえ、スウェーデン語版Wikipediaを授業のその場で速読して、即座に日本語で回答してもらうなんぞ、我らがスウェーデン語専攻の真骨頂というところでしょう。

さてさて、確かに忙しい日常業務ですが、僕は授業をするのが好きです。自分の研究を刺激してくれる体験が、授業における学生との交流のなかでしばしばありますから。昨日の北欧史の講義最中の雑談で「いつも頭のなかは17世紀や18世紀のことで一杯だ。」と話したら、下手な冗談やダジャレをかますよりなんだか学生に受けていましたが(笑)…事実そうです。僕はたぶん自分の思考の根幹に「歴史」のことがあって、日々その根幹を刺激してくれる体験を求めています。例えば、授業はその最たる機会です。例えば、大学院の演習。僕の大学院の演習は今のところ一人しか受講者がなく、しかもその院生はロシア史が専門なので、昔取った杵柄でイワン3・4世からアレクセイ・ミハイロヴィッチくらいまでのロシアの軍事革命論(つまりピョートル大帝の前くらいまで)に関する論文を読んでいます。(恥ずかしながら、僕は本郷ではロシア史のゼミの末席に加えてもらっていました。)参考文献として露和辞典(僕は研究社の辞典を愛用)やら、山川の世界歴史大系のロシア史やら、スウェーデンに亡命したロシア人外交官コトシーヒンによる「アレクセイ・ミハイロヴィッチ治世のロシアについて」(…これは松木栄三先生による大変立派な邦語訳があり、とりわけ先生による注釈がとても内容豊富ですばらしい業績と思います…)などを広げています。

軍事革命論という議論を考える研究者は、近世ヨーロッパで戦争の性格を変えたいくつかの具体的指標を想定しています。それが火器の普及やイタリア式築城術を受けた要塞の普及、火器と要塞の普及によって変化した戦術を支える軍隊構成などなどなのですが、今回の発言ではこれを要塞に限定しましょう。例えば昨日の演習の時間では、「城塞」と「要塞」の違いを延々と検討していました。一般的な軍事革命論では、火器を用いた攻城戦に対抗するために、イタリア式築城術に端を発してヴォーバンによって完成されていく要塞建築の普及がよく論じられます。しかしながら、バルト海世界やロシアにおいて、一般的に軍事革命の時代と定義されている16世紀〜17世紀くらいにおいて、そうした「要塞」単独の普及は一部の例外を除いてあまり見られません。むしろ中世以来の「城郭都市」に土塁や堀、さらには稜堡を築いてで補強する事例が多く見られる。バルト海世界で言うならば、コペンハーゲンが一つの良い例でしょう。現在では世界遺産として知られているヘルシンキ(ヘルシングフォーシュ)のスオメンリンナなどは、バルト海世界に幾何学的な「要塞」建築が導入された事例ですが、それは18世紀になってからの話です。となると、一般的な軍事革命論ではスウェーデンは軍事革命の典型的事例を築いた国として紹介されるのですが、要塞の普及という点から言うとバルト海世界は軍事革命の「向こう岸」にあったということになるのでしょうか?(…話はそんなに単純じゃないですけど。)

軍事革命論については、来月の日本西洋史学会で報告を控えていますので、今の僕の頭のなかで延々とリフレインし続けているテーマです。スウェーデンと軍事革命論の再検討の話は、学会で報告を楽しみにしてもらうとして、この「城塞」か、「要塞」かという話は水曜日にやっている「北欧の地誌」との関係でも、僕を刺激してくれました。「地誌」の授業は北欧の都市論をテーマにしていますが、例えばバルト海最大の島であるゴットランド島にあるヴィスビーの衰退は、ひょっとすると軍事革命論との関係からも検討してみることができるなと思いました。ヴィスビーは、「ハンザ同盟都市ヴィスビー」として世界遺産にも登録され、中世以来の城郭都市の構造が現存している町です。かつてはハンザ同盟の一拠点として栄えましたが、14世紀以降のデンマークとの抗争や16世紀のハンザ同盟における内紛とリューベックの侵攻により衰退し、17世紀にスウェーデン領になりました。ヴィスビーの衰退は、様々な角度から説明されています。よく言われる理由は、バルト海商業の統制が各国の王権によって集中的に統括されることによりヴィスビー商人が自律的活動を展開できなかっただとか、港も生き物だということを知っている人ならばヴィスビー港海底の堆積が増したために大型船舶が来港しうるような機能を失っただとか。

僕は昨日の大学院の授業で軍事革命論を教えていたときに、実は頭のなかでヴィスビー衰退の議論は軍事革命論の見地からも論じられるのではないかと考えていました。例えば、ヴィスビーの衰退を決定した16世紀のリューベックの侵攻でどのような攻城戦が繰り広げられたのかを調査する必要はありますが、現存する当時の廃墟の様子を見る限り火砲が用いられた可能性は高い。ヴィスビーは典型的な中世の城郭都市であり、火砲による攻城戦には耐えきれなかったのではないか?このヴィスビー陥落以降、マルメーやコペンハーゲン、ランスクローナといったバルト海世界の主要な港湾都市は城郭外延部を稜堡などで補強する一方、ユーテボリ(…これはオランダ技師を多く招いた結果、超ミニチュア版アムステルダム的都市プランを呈しています…)やカールスクローナ(…これは17世紀末のストックホルム大火でストックホルムにあった海軍の中枢機関が打撃を受けたために新たに計画された軍港を中心に擁する軍事都市で、イングランドのチャタムやフランスのロシュフォールといった軍港都市を参考としてつくられました…)といった攻城戦に対応できる「要塞」機能をあらかじめもった都市が建築されるようになったことを傍証として考えれば、ヴィスビー衰退もバルト海世界における軍事革命の展開といった文脈から論じられるのではないでしょうかね。ま、今のところ、何の根拠もない思いつき程度の話ですが、もし関心がある方がいら、したらしかるべき史料を基に研究してみてください。

歴史への知的関心が刺激する授業と研究の間。これがあればこそ、授業と研究の間がとりもたれ、日々の忙しい業務も楽しめるというもんです。

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