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2008年3月20日 (木)

コトバは平等ではない

さて、今回のシンポジウムの企画と運営に携わってきて、感じていたことがあります。それは以下の通りです。(この直前の発言から読んでいただくと、この話の流れがわかっていただけると思います。)

世界中で何千というコトバが話されていますが、それらは残念ながら平等ではなく、それぞれの時代・それぞれの世界で普遍的影響力を獲得した普遍言語と、特定地域における生活言語として使われている個別言語の間にヒエラルキーがあります。それゆえに、どの時代・どの地域でも母語と呼ばれるものは、単なる個別言語の層だけからなるものではなくて、より広域的な世界に参画するための前提条件として、普遍言語の語彙を独自的・戦略的に個別言語は横領 し、その結果として母語と呼ばれるものがつくられていくという筋道があると感じています。

そうした目に見えない言語ヒエラルキー(言語帝国主義とも言えるのか?)については、19世紀以来はいうまでもなく英語・独語・仏語・露語などを頂 点としたヒエラルキーであって、実のところ、僕たちの学問体系はこの言語ヒエラルキーの構造にのっとってつくられてきたものです。だから、もともとヨー ロッパ言語的な発想である記述文法や正書法、国家語といったものがなかったアジアやアフリカ、ラテンアメリカなどを研究する場合、英語・独語・仏語・露語 などによる研究、あるいはそうした言語に裏付けられて作り上げられてきた学問的関心による研究は数多くあっても、現地語による現地語に裏付けられた問題関 心にたった現地の政治・社会・文化に関する研究は少ないのですね。(現地語による一次資料はもちろんありますが。)地域研究という研究分野を考える場合、 それが抱える方法論上の最大の問題点は、まさにこの言語ヒエラルキーから逃れられないという点にあると感じています。

西洋史学のようにヨーロッパを対象とした研究をしているとなかなか見えてこないことだけれども、僕たちはこうした言語ヒエラルキーのなかにあるとい う点では、どんなに格好の良いお題目を唱えて価値相対主義的にポスト・モダンを気取ってみても、近代主義の呪縛からは逃れられていないんだな。

これが、今回のシンポジウムを通じて、僕が感じていることです。

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