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2008年3月10日 (月)

伝えるべきこと…ロスキレ条約締結350周年

どうも、最近このブログでどうでもいいことばかり書き連ねてしまった気がします。が…今回のストックホルム滞在に際して、どうしても書いておくべきこと、伝えておくべきこととして、ここに1658年2月26日にデンマークのロスキレで締結されたロスキレ条約から、「北欧」はちょうど350年にあたる日を迎えたということを書いておくべきでしょう。王国文書館でもロスキレ条約350周年を記念して外交文書の画像処理が済んで公開されていますし、こちらのメディアでもルンド大学の友人たちの発言がとりあげられていますし。

ロスキレ条約は、1658年2月26日にデンマークとスウェーデンの間で結ばれた条約です。これによってスコーネ、ブレーキンゲ、ハッランドという三つの地域がデンマークからスウェーデンに帰属がかわることになりました。これら三つの地域がスウェーデン領となることでスウェーデンの領土はスカンディナヴィア半島南端にまで拡大し、スウェーデンとデンマークとの間の境界は現在のようにウーレスンド海峡に引かれることになりました。我が国ではほとんど知られることのない条約ですが、近代的な領域国家の概念で考えるならば、北欧における諸国家間の一つの境界線がこれによって確定されることになったという意味で、北欧史では重要な条約であり、この2月末に締結350周年を迎えたということになります。

この条約締結後のスコーネ地方のスウェーデンへの併合による国家編成の問題は、近年の近世北欧史研究の一つのトピックとされてきました。従来、この条約がスコーネ地方に与えた結果は、後世の歴史家が「スウェーデン化」として呼んだ方法概念に従って理解されてきました。「スウェーデン化」という概念は、長らくデンマーク統治下にありつつも独自の地方文化を育んできたスコーネ、ブレーキンゲ、ハッランドはスウェーデン併合後、一つのスコーネ州としてスウェーデン中央から派遣されたスコーネ総督によって統治される地域となり、政策・言語などの面で急速な「スウェーデン」化が図られ、その結果として中央集権的な「スウェーデン」統合が完成されたという考え方です。この概念は20世紀以降、国民主義的な見地に立つデンマーク、スウェーデン双方の歴史家によって共有され、広く世論に普及した結果、現在にもな生きる二つの神話をもたらしたといえます。一つは、スコーネ総督府の政策はスコーネ住民に対して慎重にしてかつ巧妙なものであったために、急速な「スウェーデン」統合を可能にしたのだという神話。もう一つは、スコーネ住民のなかには本来反「スウェーデン」的な感情を強く抱いた者がおり、彼らは1670年代に起きたスコーネ戦争でデンマークに与する義兵としてスウェーデン軍と戦ったものの、スウェーデン軍による苛烈な追討の結果、悲劇的な結末を迎え完全に掃討されたのだという神話です。後者は、現在でもなおスコーネ地方の政治的自立を主張する右翼集団によって繰り返し主張される「物語」であり、2006年にはこの「物語」に従って「Snapphanar(追いはぎたち)」というテレビ・ドキュメントが作成されたほどです。

しかしながら近年の北欧史研究では、こうした「スウェーデン化」概念が国民主義的な見地に立ってつくりあげられた解釈であり、近世バルト海世界の実態に即した理解ではないとする研究が主流となっています。国民主義的な解釈に立つスコーネ研究の嚆矢となったK.ファブリシュースは、スコーネ問題を南ユランの国境線問題の参照系として論じました。すなわちファブリシュースは、1920年の住民投票の結果、デンマークに帰属することになった北スレースヴィの住民がいかに「デンマーク化」されるべきかという問題関心を背景としつつ、4巻本からなる浩瀚な『スコーネの国替(Skaanes Overgang)』(1906–58)を表してスコーネ総督府の「スウェーデン化」政策を論じたのです。彼は、ロスキレ条約によってウーレスンド海峡に「鉄のカーテン」がひかれた後、スウェーデン語による言語政策、スウェーデン教会に従う教会政策、ルンド大学の設置に代表される教育政策、騎兵義務の強制に代表される軍事政策などがスコーネで実施され、スコーネの「デンマーク」住民は「スウェーデン」住民にさせられたと論じました。彼の示した「スウェーデン化」論はおおよそ20世紀のスウェーデン、デンマーク双方の歴史家によって共有される見方となりました。

はたして17世紀半ばから後半の時代にあって、スコーネに生きた民は自らが「デンマーク」人であるとか、「スウェーデン」人であるとかいった意識をもっていたのでしょうか?近年のルンド大学を中心とした歴史学研究では、17世紀半ばから後半のスコーネに生きた人々の行動の実態が具に検討されています。それらの成果によると、従来の「スウェーデン」化論が論じてきたような「デンマーク」か「スウェーデン」といった「国民」性を前提とした行動はほとんど見られないため、従来の「スウェーデン」化論は国民主義的な神話に基づく歴史解釈だったという結論が導き出されています。例えば、スウェーデンへのスコーネ併合後、デンマークの馬市場に関係をもっていたスコーネの住民たち自らが総督府にスウェーデン中央への馬の交易を主張していたとか。スコーネ戦争における「追い剥ぎ」掃討を逃れてスコーネ住民の3割〜4割はデンマークなどに逃亡したといわれていますが、実のところスコーネ戦争後はそうした住民もすみやかにスコーネへ復帰したたとか。最近は、従来スコーネ地方の文化面における「スウェーデン」化の先兵として考えられていたルンド大学の創設さえ、スコーネ地方の優位性を保証するために、リンシェーピングやユーテボリに先んじてスコーネ住民自らが大学設置を王国議会で主張したとか。このような研究成果は、17世紀半ばから後半におけるスコーネ住民にとって、自らが「デンマーク」であるか、「スウェーデン」人であるかということなどよりも(おそらくそうした意識は希薄であるか、この時期には全くなかったといえるのですが)、スウェーデン中央の国家権力とスコーネ住民の利害関係が共通するところで行動をともにしようとしたという結論を導き出します。これをスウェーデン中央の国家権力の視点から見れば、スコーネ総督府の政策は中央集権的な「スウェーデン」化を推し進めるというよりは、スコーネ住民の利害をくみ取ることで新たな統合者への忠誠を生み出すことに主眼が置かれたということになります。このような事例を土台としながら、近世のスウェーデン国家を解釈する方法概念として、国民主義的なナショナリティを前提としない(このブログでは何度か言及している)「複合国家」論が整理されているわけです。

こうした議論が、冷戦崩壊後、移民の増加やヨーロッパ統合といった北欧をめぐる新たな状況を背景としながら、従来の国民主義的なスウェーデン・ナショナリティの動揺に直面する歴史学界でなされた一方で、冷戦崩壊後のリージョナリズムの勃興に刺激される形で右翼ポピュリズムに訴えるスコーネ主義の台頭もあったことを指摘しなければなりません。スコーネ主義者による主張の基盤は、19世紀以降の国民主義の台頭によって強化されたスウェーデン・ナショナリティへの反駁にあります。今回のロスキレ条約350周年にあたっては、ルンド大学の研究者たちが現在の歴史学研究の最前線から「スウェーデン化」は神話であったと論ずる一方で、右翼的なスコーネ主義者はすぐさま19世紀から20世紀半ばにかけて活躍した歴史家の研究を根拠として反駁を行っています。彼らにしてみれば現在の歴史学研究の成果によって「スウェーデン」化という神話が葬り去られてしまうと、自らの主張の基盤である「虐げられたスコーネ」という主張を行う論拠を失ってしまうわけで、片や論理的にそれを導き出しているルンド大学の歴史学研究者たちの論陣たるや堂々たるものです。(「複合国家」論を10年前に提唱したハラルドなどは、今回の350周年にあたって、「ファブリシュースが言及した「鉄のカーテン」はもはや錆びついている。」とまで言っています。念のため言っておきますが、ファブリシュースはスコーネ主義者によっても言及されますが、決してスコーネ主義を唱えていたわけではないので誤解のないように。19世紀から20世紀後半にあっては実証主義的な歴史学者もまた国民主義的な時代精神を当然のごとく前提としていたというだけです。)こうした2008年のロスキレ条約350周年をめぐる議論を見ていると、「なるほど歴史学研究とは、こうした戦略にたって現実の社会に対して変革を促す力をもっている学問であり、生気みなぎる学問であるのだな。」と思わせてくれます。

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コメント

先生こんにちは!外大ゼミ記念すべき第1期生のむらかみです。
今スウェーデンにいらっしゃるんですね!スコーネにいらっしゃるときは是非ご連絡下さい!

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