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2007年5月14日 (月)

子守歌に見る北欧意識

前の発言で紹介したブランカ王妃の子守歌の話は、面白い話が続きます。

みなさん!この子守歌、王妃ブランカが息子のホーコン王子をあやしていて、その歌詞にはカルマル連合の支配者となったマルグレーテが出てくる…って話、なんだか、話がうまくできすぎている感じがしませんか?(14世紀後半の北欧史を説明するには、とても良くできたテキストだと思いますが。)そう、これは14世紀の同時代に語られた事実ではなく、19世紀に作られたフィクションです。実際に王妃ブランカが子供をあやすために14世紀に作られた子守歌ではないのです。

先の発言では、あえてこの子守歌の成立年代を説明していませんでしたが、この子守歌が作られたのは、19世紀後半だということが特定されています。まず、大阪外大の学生諸君と呼んだ子守歌そのものの歌詞は、19世紀後半にルンド大学で美学研究者として活躍したH.ハルベックの手になるものです。このハルベックの作詞は、先の発言でごらん頂いた、1877年に描かれたA.エーデルフェルトの絵に触発された結果だったということです。そして、このエーデルフェルトの絵そのものも、Z.トペリウスというスウェーデン系フィンランド人の歴史家・文学者が1871年に出版した『子供のための読み物』に収められていた「お馬さんに乗って」というブランカ王妃に取材した物語に触発されて描かれたものでした。

さて、この王妃ブランカの子守歌の成立に関わったA.エーデルフェルトという画家とZ.トペリウスは、ともにスウェーデン系フィンランド人であったという点に共通点があります。しかもロシア帝国下のフィンランド大公国時代に生きたスウェーデン系フィンランド人です。ここに、この子守歌成立をめぐる興味深い背景について、あれこれと思いを巡らせることができます。

この子守歌のプロットが1870年代以降に作成され、その内容が普及したという時代背景をまず考えてみましょう。北欧史の文脈では、1864年にいわゆる第二次スリースヴィ戦争(一般的には、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン戦争)でデンマークがプロイセン・オーストリア連合軍に敗北して、スカンディナヴィア主義による北欧民族の統一運動が挫折した後の時代となります。確かに、北欧三王国の合同による北欧民族の統一を目指したスカンディナヴィア主義は挫折したわけですが、そののち、スカンディナヴィアという言葉が表象する狭義の「北欧」を越えて、僕たちがイメージする「北欧」を用意するノルド主義とでも言うべき新たな「北欧」の考え方が模索されていきます。

その帰結は冷戦期に確立された北欧会議に一つの画期を見ることができると思いますが、スカンディナヴィア(北欧)を越えたノルデン(これも北欧)を模索していった動きの一つを、僕たちはフィンランドに垣間見ることができると思います。なぜならば、フィンランドは、19世紀のスカンディナヴィア主義を用意した考え方からすれば、言語的にも、宗教的にも、歴史的にももともとスカンディナヴィアを構成する民族から除外されていたものの、僕たちもイメージするように20世紀後半以降は「北欧」の一員として誰もが疑わない国家へ変貌を遂げましたからね。「北欧」という概念が歴史的に変幻するのだというテーマの格好の素材です。

フィンランドは、長いスウェーデン支配の歴史から脱し、ナポレオン戦争以降はロシア帝国を構成する一つの大公国として自立します。スウェーデンとの対抗関係を念頭に置いたロシア帝国のフィンランド政策は、言語・文化面での脱スウェーデン化(それは転じてフィンランド化)に特徴が見られるかと思います。そのなかで危機感を抱いていた人たちは、スウェーデン統治下にあっては伝統的なエリート集団とされていたフィンランドのスウェーデン語話者(いわゆるスウェーデン系フィンランド人)でした。

フィンランド大公国(そしてロシア革命後はフィンランド共和国)の主流が脱スウェーデン・脱北欧を目指す一方、スウェーデン系フィンランド人は、例えばスカンディナヴィア主義が盛んだった19世紀半ばには、自らもスウェーデン文化に連なる一員であることを主張して、その運動への連帯を申し出たりもしています。スカンディナヴィア主義が挫折した後も、スヴェコマンと呼ばれたスウェーデン系フィンランド人たちは、フィンランドをも含むより拡張された「北欧」の存在を主張します。

僕は、この子守歌が1870年代にヘルシンキに集ったスウェーデン系フィンランド人たちの間で作られていった事実にぶち当たったとき、「この子守歌は、スウェーデン系フィンランド人たちの「北欧」希求の一つの顕れではないか?」と思いました。王妃ブランカの物語を書いたトペリウスやその様子を描いたエーデルフェルトたちの書簡をつぶさに調べたわけではないので、今の時点では確証はできません。

しかし、トペリウスがスウェーデン系フィンランド人の精神的中核を担うかのJ.L.ルーネバリ(フィンランド国歌の歌詞を書いた人物として知られる超ビッグネームです)の歴史学・文学における門弟であり、エーデルフェルトもまたルーネバリの主宰するサークルにあってルーネバリの様々な作品に挿絵を提供していた画家であった(例えば、ルーネバリの代表作である例のナポレオン戦争に取材した『旗手ストールの物語』など)ことなど、その状況証拠をかき集めて僕が想像してみるに、19世紀後半のヘルシンキ(…この場合、スウェーデン語風にヘルシンフォシュと言ったほうが良いかな…)のルーネバリを軸として集ったスウェーデン系フィンランド人の求める「北欧」意識が、この子守歌にも垣間見られると思ったのです。

例えば、「北欧」の起源を歴史的記憶に求めようとした際、それをデンマーク王を盟主としたカルマル連合ではなく、スウェーデン王マグヌス・エリクソンを中核とした「中央スカンディナヴィア帝国」に求めたあたり。自らも歴史的にスウェーデン人としてスウェーデン文化(あるいは彼らにとっては「北欧」文化)を担ってきた成員としてのスウェーデン系フィンランド人たちの自覚が、この子守歌にはこめられているような気がします。

たった一つの子守歌から広がる北欧史の世界…中世から現代、フランドルからフィンランド…いささか誇大妄想的なのは、僕の性格ゆえお許しください。何気ない学生の質問から出発した壮大な話です。(スウェーデン語の授業にでてくれているみなさんには、本当に感謝。こうした経験ができるから、どんなに疲れていても希望を見いだせます。)ただしこの後半の発言は、状況証拠から僕が想像している話にすぎません。どうぞ、関心を持たれた方がいらしたら、しかるべき史料にあたって調査・批判してみてください。応援します。

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