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2007年2月28日 (水)

学生のみなさん、世界史はしっかりと勉強しておくべきです

昨日の昼間、僕が大学にいる隙を見計らったように、緊急にウズベク語に関する研究プロジェクトに関して立案するよう、勅命が下りました。「なぜ、僕が?」とは聞かないでください(笑)。みんなと盛り上がれるような、面白そうな企画を立てるのは、大好きです。(そんな僕の夢は劇場支配人で、面白そうな演目を経営ベースに則っりつつ、舞台にのせること。今でも、その夢はあきらめてはいません。)で、期限は明日の午前ということで、今日はやるべき仕事を一時すべて中断して、ガッと具体案を4つばかり練り上げました。その詳細はここでは明らかにできませんが、こういう作業をするときにいつも思うことは、「う〜ん、世界史をきちんと勉強しておいて良かった!」ということですね。

僕らはから簡単に「ウズベク語」と一括りにしますが、実のところ、現代ウズベク語とされているものは、サマルカンドなどオアシス地域の定住者が使用する方言、ブハラやタシケントなどに居住する遊牧ウズベクの使用する方言、ホラズムあたりのトルクメン語に近い方言の三つからなっているらしいんです。ウズベク語はテュルク語系の言語ですから、筑波大に移られた那須昭夫さんとたまに語っていたことだけど、母音調和が喪失していることにまず特徴の一つがあるらしいのですが、たとえば遊牧ウズベクの方言では母音調和は残っているらしい。それゆえに、定住や遊牧と言った生活様態の違いで、方言が異なることも興味深いのですが、僕としては、中世から現代にかけて中央アジアにおけるヘゲモニー勢力との関係で、アラビア語・ペルシア語・ロシア語からの語彙が多く含まれるという点にあります。

  1. テュルク系の民族と言えば、やはり歴史上最初に注目されるのは、イスラム帝国においてマムルークとして活躍したトュルクメンの存在で、ここにアラビア語との関係が始まるわけです。
  2. でもって次は、モンゴル帝国の後継国家としてのキプチャク=ハン国や、やがて彼らがテュルク系の在地勢力と融合して成立していったティムール朝など、テュルク・モンゴル系王朝の存在。サマルカンドあたりを中心とする近代ウズベク民族成立の基盤には、やはりティムールへの歴史的記憶の存在を抜きにしては語れないでしょう。
  3. そして、北大スラ研で活躍している僕の友人前田弘毅くんが研究しているサファヴィー朝ペルシアの存在。ウズベク系はここで傭兵として立身出世し、地方の有力士族として活躍していたので、少なくともここにペルシア語との関係が見られるわけです。
  4. でもって、19世紀以降はキプチャク平原のウズベク系国家がロシア帝国に服属していった訳ですが、ロシア・ソ連という現代の「帝国」体制のなかでロシア語との関係が深まる。この時期は、ヨーロッパ起源の記述文法体系が民族言語(いわゆる国語)の成立に大きな影響を与えたわけで、ここに現代ウズベク語が成立する過程が見られるという次第。(民族言語というもの構築する際に、ヨーロッパ起源の記述文法という論法を借用せざるを得なかったのは皮肉な話ですね)

以上は、高校世界史で教えられているレベルの知識から、ざっと中央アジア史の流れを概観してみて思いついたところ。世界史をしっかりと勉強できていれば、現代ウズベク語の成立につながるヒントは、中央アジアをめぐるヘゲモニー勢力とウズベク民族との歴史的接触・交流のなかから、いろいろと見いだせそうということを即座に類推できます。ほんの数時間集中するだけで。学生のみなさん、忘れないでください…僕は、スウェーデン近世史が専門だということを!

(あともう一つ。現代ウズベク語の文章語記述の原則は、サマルカンドあたりの方言を基礎としているらしいのですが、いわゆる「ウズベク」として一括りにす るもののなかにも、少なくとも定住・遊牧といった生活様態の違いがあって、最終的には定住者の論理が優越して現代語ができあがるのですが、ここらへんの 「ウズベク」内部での力学関係も、面白そうですね。大体、近代ってのは、生産力中心主義で、農業や陸地といったものを重視する見方が強すぎで…話が長くな るのでやめます。)

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熊本県の公立高校で世界史を教えています。いくつか質問させてください。まず前提として、「トュルクメン」という言葉は教科書に「トルコ系民族」と同義語と理解してよろしいでしょうか。ついでに「トルコ系」とそれ以外を分ける指標についても教えていただくと有り難いです。言語かなとも思いますが、よく分かりません。先生がお書きになっている1についてですが、「イスラム帝国においてマムルークとして活躍したトュルクメン」というのは、教科書にでてくる「ウイグル崩壊後に中央アジアに移動してきたトルコ系民族」だと思うのですが、なぜ彼らが教科書に大きく取り上げられている突厥やウイグルよりも「歴史上最初に注目される」のか、何か大きな発見とかがあったのでしょうか?またマムルーク全体に関わりますが、中央アジアに定着したトュルクメンは、おそらく気候的制約から遊牧生活を放棄していたと思うのですが、彼らはそれでも騎馬が得意だったのでしょうか?2の部分ですが、今年の京大の二次の問題のように、高校では「チャガタイ=ハン国出身のティムールがたてた国は、旧キプチャク=ハン国領から出てきたトルコ系ウズベク族によって滅亡した」とするのが一般的だと思います。先生がお書きになった2の文章を、もう少し詳しく解説いただければと思います。長々と失礼いたしました。

zep様、ご質問・ご指摘ありがとうございます。私、専門がスウェーデン史なものですから、不適当な回答や記述がある場合もございますので、その際にはご容赦ください。(この発言もほんの少しの時間、中央アジアのことを夢見て、気の向くままに書いたまでのものでございます。)

まずテュルクメンについては、トルコ系民族と同義語とするには問題があるかと思います。いわゆるマムルークにもその形態にはいろいろとあって、男子の戦闘員だけから構成される場合もあれば、家族や家畜も引き連れて遊牧社会の構成そのものを引き連れて、放牧地が与えられる一方で、都市の防衛や徴税を請け負わせる場合もあり、後者の場合をマムルークのなかでもテュルクメンと言うのだと僕は理解しています。テュルクメンの形態をとったマムルークには、トルコ系民族が多かったということでしょうか。

今回の記述は、現代ウズベク語の成立という現代のウズベクの観点から発言をしたためている点、ご理解いただければありがたく思います。zepさんがご指摘のように歴史上は突厥やウイグルの存在が中国史との関連のなかで注目されますね。(突厥はテュルク系として良いのでしょうか?支配氏族はテュルク系でしょうが、部族連合のようなイメージで僕はとらえていますが。)今回の発言は、アラビア語・ペルシア語・ロシア語との関係を誘導するために、僕が意図的に歴史上の出来事を「操作」した文章です。ウズベクを最初とする「大きな発見」があったということではありません。僕の文章上の「操作」です。以上の言語と現代ウズベク語との関係、中国ではなくウズベクの話を安易に理解させるためには、突厥やウイグルがなじまないと僕が判断しました。もしこれが「トルコ系民族」一般に関する発言ならば、当然一言、突厥やウイグルについての補足が必要だったと思います。

「トルコ系」とそれ以外を分ける指標は、この発言ではテュルク諸語系の言語を使用するか否かという点だけにおかれています。「彼らはそれでも騎馬が得意だったのでしょうか?」という点は、どうなのでしょう?テュルクメンを厳密にマムルークの一形態としてとらえるならば、都市防衛を司るとはいえ、放牧地も与えられていますからね…騎馬が得意か、どうかは、実際にご専門の方か、中央アジアに行かれたことのある方にうかがうべきかと思います。一般的に、チャガタイ系のトルコ人は定住化が進んでいる一方で、ウズベクは遊牧生活の色彩が濃かったようなイメージを、僕は思い描いていますが。それから、ロシアに服属したウズベク三ハン国は定住ウズベクの色彩が濃いですよね。

2の文章について。ティムール朝に主眼を置いて説明をするならば、zepさんが整理するように「チャガタイ=ハン国出身のティムールがたてた国は、旧キプチャク=ハン国領から出てきたトルコ系ウズベク族によって滅亡した」が正しいでしょうね。今回の発言には、ティムール朝についての発言ではなく、あくまでもウズベクを主体とした発言です。現代ウズベク語につながる方言(カルルク方言、キプチャク方言、オズク方言など)の使用者が関係をもった支配王朝として、キプチャク・ハン国、テュルク・モンゴル系王朝、キプチャク草原あたりのウズベク国家を想定して、発言しました。このなかに、チャガタイ・ハン国も入れるべきでしょうか?チャガタイ・トルコとウズベクのトルコでは違いはあるわけですよね。

ウズベクという呼称の示す範囲、それ自体が大きな歴史上のテーマになる問題です。ティムール朝の人々は、チャガタイ系である自分たちと区別して北の遊牧民たちを「ウズベク」と呼んでいますし、ティムール朝を滅ぼしたシャイバーン朝が16世紀に南下して以降、ウズベクは西トルキスタン南部に住むテュルク系遊牧民のこと。やがてそうしたウズベクからも定住する者も見られ、サマルカンドあたりではペルシャ語を話すものと区別がつかなくなるようにもなる。定住ウイグルらを中心として、いわゆるウズベク三ハン国などができていきますが、20世紀におけるウイグル民族の概念は、単に西トルキスタン南部のテュルク系定住民と遊牧民を包括したものにすぎず、どうもそのなかにはペルシャ語話者も多いらしい。そうなるとただ単に言語を基準としたウイグルという枠組み自体が"眉唾"と申しましょうか…危うくなりまして、今一度何を基準としてウイグルを成立させているのかを検討する必要がある。それを言語と歴史の側面から検討してみようというのが、今、僕などが携わっている研究プロジェクトなんです。

古谷先生、お忙しい中丁寧な回答をいただきありがとうございました。テュルクメンとトルコ系民族、そしてマムルークの関係を整理していただき大変助かりました。特にマムルークのあり方については、少し本を読んだだけでは理解できない部分があり、以前地元の研修会で同じような質問をさせていただいて以来、ずっと引っかかっていたことでした。突厥については、私の理解は極めて浅いので、最近阪大のプロジェクトなどで顕著な「中央ユーラシアの遊牧民族が果たした役割を見直そう」という趨勢だけが頭にあり、トルコ系というと、「トルコ系遊牧民」という事柄が真っ先に頭に浮かんだため(受験指導に毒されている?)質問させていただいた次第です。少し場の空気を読めなかったと反省しております。突厥がテュルク系か否か、という点ですが、高校の世界史で遊牧国家をとりあげる場合、「○○系の国家=○○系民族が支配的地位を占めている国家」(遊牧国家の場合、ウルスのように現代の国家概念とはかなり隔たりがあると思いますが)という言い方をします。高校レベルではそれで問題はないと思いますが、やはり「キプチャク=ハン国の住民は何人ですか?」という質問が生徒からは出されますね。中央アジア付近は、阪大の影響か最近かなり注目をあびているように感じます。ただ高校生には、整理してやらないと理解させるのはかなり難しい気がします。民族的な複雑さもさることながら、高校生多くは「中央アジアとは一体どの付近なのか」という疑問をはじめ、最近の教科書では「内陸アジア」さらには「トルキスタン」という呼称もでてきて、これらの語句のそれぞれの関係を理解させるのもこれまた一苦労です(笑)。先生の文章を拝読し、(教科書にはティムール朝の部分くらいしか出てこない)「トルコ系ウズベク族」を、中央アジアで大きな役割をトルコ民族史の流れに位置づけよう、という提案だと理解しております(誤解していたらすいません)。実に興味深いプロジェクトです。あれだけ長い歴史を持ちながら民族固有の文字を持たず、故地から遠く離れた場所に現在は多く居住している点など、不思議な民族だと感じています。大変勉強になりました。ご活躍を期待しております。

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 今日は熊本県の高等学校教育研究会地理・歴史部会及び高等学校地歴・公民研究協議会がありました。場所は済々黌高校。午後から明日の校内模試の準備のために学校に戻りましたが、授業を見学させていただき、勉強させてもらいました。  見学したのは「内陸アジアの変遷」でしたが、ちょっと分からないことがあったので、その後の協議会で質問させてもらったのが、マムルークのこと。教科書には、中央アジアに移住してきたトルコ人はそれまでの遊牧生活から定住生活にはいったとありますね。だとすると、トルコ人は遊牧騎馬民族だからマム... [続きを読む]

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