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2006年2月21日 (火)

史学史の意義

東大の近藤先生がご自身の掲示板の発言番号1228で、古い研究を「古い」からといって安易に切り捨ててしまう院生の発言に批判を加えていらっしゃいます。それに関して僕も思うところを一言。この間東欧史研究会で報告したときをはじめ、北欧史を研究していていつも感じることは、北欧の研究者たちの研究のなかでは常に古い研究の価値が生き続けているということです。もちろん北欧は第一次世界大戦や第二次世界大戦、冷戦といった歴史的分断の転機を経験しておらず、ほかの地域と比べれば現在につながる歴史学研究の流れに断絶がなかったという特色があります。それゆえに今でも19世紀から20世紀の研究が「参照」されたうえで、そのうえに現在の研究が成り立っているのだとも言えます。

しかしながら、僕は、そうした北欧の歴史学に特有な性格はここではあまり意味をもたないと思っています。むしろ歴史学の営みのなかでは、常に「参照」という行為が普遍的に重要な行為なのだと思っています。アイテムとしての個別の研究はそれ自体(例えばデータに欠損があったりして)精度に問題があった古いものだとしても、現代における歴史学研究者の依ってたつ立場に応じて、その価値の「生死」の度合いは変幻します。つまり古いからといって全くその研究の価値がゼロ(ときにはマイナス)になるのではなく、「参照」という批判的作業を通じて一見古い研究にも現代的な意義が与えられるのです。「参照」とは自らの今ある立場に対象の価値が反照する行為です。例えば北欧のような歴史的断絶の少ない地域で古い研究が「参照」されるのは、現代的な自らのアイデンティティを省察し、さらにはそれを再構築する過程で、意図的に「参照」という反省行為が重視されるからと言えるでしょう。そういう意味で史学史の「参照」は、現在(あるいはそれを引き継ぐ未来)に対して創造的な行為だと言えるでしょう。

歴史学研究の根本的な問いかけとは、現在において自らが何者であることを問いかけることから出発するのだと考えるならば、自らの生きる時代のコードに立脚した「参照」という行為は、僕たち歴史学研究者の知的作業における創造性の大きな部分を司ります。換言すれば、古い研究を「古いから」とばっさり切り捨てるというのは、歴史学研究のもつ創造性の一部を切り捨てることになります。そしてそうした切り捨て行為を行える者は、歴史学がなぜ、どのようにしてなされるものなのかに対する意識が曖昧なのではないかとまで疑問を抱かせます。つまり、史学史の意義を否定することは、知的創造行為としての歴史学の意義を否定することに匹敵する蛮行ではないかと思うのです。というわけで学生のみなさん、僕がレポートの評価などで参考文献や出典脚注をなぜ重視するのか、その理由はわかってもらえますよね!

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