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2005年11月12日 (土)

間谷祭と語学教育

毎年11月の第二週は大阪外大における秋の学園祭「間谷祭」、史学会における史学会大会が重なってしまうのですが、 大阪外大の専攻語に属する教員としては間谷祭のメインイベントである語劇(専攻語の学部学生が専攻語を用いて演じる劇)を観劇し、 それにコメントを寄せる慣行があるので、史学会ですばらしく興味深いテーマが用意されていた今年も間谷祭に参加しました。 (いや、ほんと、ギリギリまで悩んでいたんですよ…史学会関係の皆様、欠席申し訳ありませんでした。)語劇は学部2年生(すなわち専攻語の履修を開始して2年目) の学生が中心になって準備され、演じられます。大阪外大の着任以来とても感心するのは、 学生たちがたった1年と半年程度の履修状況にもかかわらずスウェーデン語やデンマーク語を流暢に用いて一つの演目をまとめあげるものだということです。 各専攻語に属する学生と指導にあたる外国人教員とのチームワークのなせる業かも知れませんが、 かつて東大の学部生時代にやはり秋の学園祭である「駒場祭」で演劇をした経験(…端役で俳優しました… 今でも文科三類時代の友人たちとのつきあいは深いのですが、きずなの理由の一つは演劇という共有体験があることは言うまでもありません…) から判断して、公演に漕ぎ着けるまでの作業は山あり谷ありの連続であったことが予想され、 しかも母国語でない点で実現している点は掛け値なしに大阪外大の学生のみなさんを誇らしく思います。

もちろんこれを純粋な演劇として見れば稚拙な部分が多いことは否めませんが、しかしこれが幅広い語学教育の一環であると考えた場合、 公演の言語もさることながら、それを実現に漕ぎ着けるまでの外国人教員とのコミュニケーションも含めて考えてみると、 相応の高い効果が得られているのだと思います。短期間で一定水準の内容を実現せねばならないわけですから、 これは学生の間に高いモチベーションが共有されていなければ不可能な話です。 また今年のデンマーク語の公演はアンデルセン初期の童話のなかでも解釈の非常に難しい『親指姫』の短縮版、 スウェーデン語の公演はアストリッド・リンドグレーンの前半生と『長靴下のピッピ』を入れ子状に絡めた内容と、両者ともに脚本はオリジナル、 しかも観客はスウェーデンやデンマークのことなど知らぬ者も多い訳だから、それはわかりやすく翻案されねばなりません。 今年の両専攻語の公演は実にわかりやすく内容が整理されており、しかもそのはしばしには 「これはスウェーデン社会のことを知っていなければ出てこない話」というような内容も盛り込まれており、 わかりやすさの理由は劇作りに携わってきた学生のみなさんが専攻語はもちろんその背景となる情報も理解できていたことの反映だと受け取りました。

大阪外大での語学教育は今が完璧というわけではなく、常に進化が必要と教員の誰もが感じていると思います。 この語劇もすばらしい機会ですが、しかしこれはあくまで一通過点にしか過ぎず、3~4年生になれば、留学の経験も踏まえて 当該の地域文化により肉薄するために必要な専門的な言語運用能力の醸成も必要になります。よく同僚の先生方とは 「外国では1~2年間程度の時間である程度の日本語会話力がつくのに…なぜ日本の語学教育は…」という話をしていますが、例えば、 僕の妻が通った移民のためのスウェーデン語学校(SFI)の場合、 使っているテキストはほとんど大阪外大で使われているものと変わりがないけれども、直接的にスウェーデン語だけで語りかけられる授業で、効果抜群でした。 そこでは一切例外は認められません。だって移民同士だと共通に会話できる言語はスウェーデン語に限られるわけですから。 スウェーデン語をマスターしないとスウェーデン社会に受け入れられないという切実なモチベーションもあるでしょうが、 しかし稚拙でも積極的にスウェーデン語で会話していく機会は語学上達の一番の近道なのでしょう。

例えば僕の同僚の先生は、大阪外大入学直後の勉学へのモチベーションが高い1年生の時期には、より多くの授業を専攻語の授業に充て、 日本人教員と外国人教員がコラボレーションする授業も多く設定するなどの改革案をもっていらっしゃいます。 あれだけの語劇を短期間でものにできる学生たちの潜在力から判断して、より短期集中的に語学教育を行うことは実に有効だと思います。 直接的な対話法が語学教育のみならず、地域文化の教育に必要なことは僕も常日頃考えているところでもあります。例えば、 歴史や地誌の授業をしていても日本語や英語では現地語のニュアンスが正確に伝わらない内容もあるのです。僕が大学院生に成り立ての頃、 バルト=スカンディナヴィア研究会で「Warfare StateからWelfare Stateへ」 と指摘したときに批判を頂いたとは以前の発言で紹介したエピソードですが、これは英語だからできる言葉遊びであって、 実際のところスウェーデン語では前者は"krigsmakten"とすべきだとろうし、後者は"välfärdsstaten"。 英語で示せるような一見イキな表現もスウェーデン語で示すところは全く異なってしまい、その内容は伝わらない。従って、 英語や日本語だけでは地域文化の根幹を伝えることは限界があり、最終的には現地語のニュアンスの襞にまで分け入って伝える必要があるのです。 だから僕自身のスウェーデン語の訓練もかねてスウェーデン語だけで授業をしてみたいという気持ちもあるけれど、難しいのは他専攻語の学生も受講している場合、スウェーデン語だけではだめなわけであって、 だからと言ってみながわかる英語にしてしまうと、英語とスウェーデン語は文法レベルでは一見非常に近しい言葉だけれども、 語彙の根本を支えている概念の話になってくると全く異なる文化環境で育まれた言葉だから、伝えたい内容も英語では伝わらない。非北欧文化圏で北欧文化を教授する場合、日本語で話そうと、英語で話そうとそれが根本で抱える問題は同じだ思っています。

語劇に触発され話が意外な方向へと発展してしまいましたが、大阪外大の学生のみなさんに伝えたいことは、 語劇で得られた経験を踏み台として、 今後は現地語を用いてスウェーデン文化やデンマーク文化の核心に迫るような方向で勉強を発展させていってもらいたいということ。 ただ日常会話ができるようになるだけではもったいない。あなたがたは箕面の学舎でが国でも数少ない北欧文化のエキスパートの卵としてスウェーデン語、デンマーク語の訓練を受け、 現地語の運用力を授けられているのだから、その自負心をもって勉学に励んでください。

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